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'''ピーター・ユベロス'''(''Peter Victor Ueberroth''、[[1937年]][[9月2日]] - )は、[[アメリカ]]の[[実業家]]。[[1984年]][[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]の大会組織委員長を務め、赤字続きだったオリンピックを放映権料やスポンサー収入などで黒字に転換させた。
 
== 略歴 ==
オリンピックの創設者[[ピエール・ド・クーベルタン]]が死去した1937年9月2日にアメリカ・[[イリノイ州]]で生まれ、北カリフォルニアで育った。フリーモント高校時代は[[アメリカンフットボール|フットボール]]、[[野球]]、[[水泳]]で活躍。[[サンノゼ州立大学]]時代には[[水球]]で活躍し、[[1956年]][[メルボルンオリンピック]]の代表候補にもなったが、代表にはなれなかった。
 
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放映権は一発入札を行い、[[American Broadcasting Company|ABC]]が破格の2億2500万ドル(その他7500万ドルの放送設備費も負担)で独占放映権を獲得。スポンサー契約でも1980年[[レークプラシッドオリンピック (1980年)|レークプラシッドオリンピック]]では371社あったスポンサーを30社、1業種につき1社に限定。その代償として1社最低400万ドルのスポンサー料を要求した。また、公式マスコットの「[[イーグルサム]]」の商品化を徹底して行い、独自の収入源に仕立て上げた。陸上競技場は[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]で使用した競技場を改装し、選手村は大学の寮を使用した。5000人のボランティアを募集して人件費も抑え、結果2億ドル以上の黒字を生み出した。この商業主義の手法は「ロサンゼルス方式」と呼ばれ、その後のオリンピックに影響を与えた。同年、「[[タイム (雑誌)|タイム]]」誌の「[[タイム (雑誌)#パーソン・オブ・ザ・イヤー|パーソン・オブ・ザ・イヤー]]」に選ばれた。
 
オリンピックから2ヶ月後の1984年10月に[[メジャーリーグベースボール]]の第6代[[コミッショナー]]に就任。就任直後に選手会のストライキ問題を解決し、反薬物キャンペーン、球場でのアルコールの販売を制限などを行った。また、就任前は26球団中21球団が赤字だったが、オリンピックで成功したスポンサー制度を取り入れ[[1988年]]には赤字球団をなくし、年俸の高騰で赤字続きだったメジャーリーグの収支を黒字に転換させた。4年連続観客動員数増も達成し、[[1989年]]に勇退した
 
[[1992年]]には[[ロス暴動]]後の[[ロサンゼルス]]再開発計画を指揮。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]員で、[[2003年]]のカリフォルニア州知事選に財政再建を訴えて立候補したが、州共和党本部が同じ共和党の有力候補[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]に候補者を一本化する方針を決めたこともあり、投票1ヶ月前に立候補を取り下げた。