削除された内容 追加された内容
Hitam1200 (会話 | 投稿記録)
Hitam1200 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''東北野球企業株式会社'''(とうほくやきゅうきぎょう - )は、かつて[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]に本社を置いていた[[企業プロ野球]]公式戦の興行専門会社。[[河北新報|河北新報社]]中心となってに県内15社が出資していた企業で、同市[[宮城野区]]にある[[県営宮城球場]](現フルキャストスタジアム宮城)で開催される[[プロ野球]]公式戦の興行を専門的に取り扱う会社だったが、[[2002年]]に廃業した。
 
==沿革==
宮城球場がプロ野球公式戦を[[ナイター]]で開催するための改修工事を行うのに伴い、[[1972年]]9月、河北新報社の他、宮城県内に拠点を置く企業・団体15社の共同出資により発足した。東北野球企業はこの改修工事に要する資金を援助し、宮城球場は翌[[1973年]][[3月20日]]、6基の照明塔による照明設備の追加設置、スコアボードのうちスコア表示部を電光化するなど大規模な改修工事を完工した。プロ野球に対応する照明設備が設置されたのは[[東北地方]]6県で初のことだった。東北野球企業はその後、宮城球場にプロ公式戦を誘致し入場券の販売などを行う興行会社となった。
 
折りしも、ロッテオリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])が1972年秋、当時本拠地としていた[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]([[東京都]][[荒川区]]南千住)の閉鎖に伴い本拠地球場を失ったため、代替の本拠地を探していたところ、その候補として宮城球場が浮上した。当時はまだ、日本国内に本格的な照明設備を有する野球場が少なかったことも背景にあった。ロッテは翌1973年から[[プロ野球地域保護権|保護地域]]を東京都に置いたまま、宮城球場で公式戦26試合を開催、東北野球企業が勧進元となって全試合の興行を取り仕切った。その他の主催試合は首都圏にある他球団の本拠地などを使用した。
8行目:
同年12月の実行委員会で、ロッテの保護地域を暫定的に宮城県に移転することが承認され、宮城球場は翌[[1974年]]から正式な本拠地となったが、球団事務所や合宿所など諸施設は東京都に置いたままで、試合の開催方法も前年同様だった。ロッテは同年、プレーオフを制してリーグ優勝を果たしたものの、[[中日ドラゴンズ]]との[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]は収容人員や施設上の問題などの関係から、ロッテの主管試合(ホームゲーム)は全試合[[後楽園球場]]で行われることとなった。これに関して仙台では「施設が不備だから仕方がない」と理解を示す論調が大勢を占めていたものの、いざロッテが中日を下して日本一に輝くと、優勝パレードは東京で行われただけで、仙台では何の行事も開催されなかった。これに対して市民からは「地元のチームとして応援してきたのに、裏切られた」などといったと痛烈な批判が寄せられた。この一件を境に仙台でのロッテ応援熱は冷め、翌年の観客動員は大幅な減少に転じた。ロッテはその後[[1977年]]までは宮城球場を本拠地とし、年間30試合前後(ピーク時の1977年は38試合)の主催公式戦を開催した。ただ、この間も首都圏の他球団本拠地も併せて使用しており、開催方式は5年間ほぼ変わらないまま。特に1976年以降、宮城球場で開催されるロッテ主催公式戦は、首都圏で予定していた雨天中止分の振替開催が主体となっていたのが実情だった(この間のロッテについては[[千葉ロッテマリーンズ#ジプシー・ロッテ]]を参照)。
 
ロッテは1977年限りで宮城球場を撤退し、翌[[1978年]]から移転、[[川崎球場]]に本拠地を移したが、[[1978]]以後も年10試合程度主催公式戦を開催、東北野球企業は引き続きその興行を担当した。また千葉ロッテの他、[[読売ジャイアンツ|巨人]](巨人)、[[横浜ベイスターズ|横浜]](横浜)、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]、[[西武ライオンズ|西武]]などの主催ゲームを公式戦の興行を取り扱ったまた[[1992年]]には地方球場としては初開催となった[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第3戦の興行開催された扱っている。なお[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]主催の試合も1993年に1試合組まれたが、雨天中止となっている。
 
しかし宮城球場の老朽化により、年間10試合程度あったプロ公式戦の開催数が激減。これにより経営状態が急速に悪化したため、東北野球企業は2002年11月に会社を清算、解散した。[[2003年]]・[[2004年]]シーズンは、宮城球場での公式戦は東北野球企業の筆頭株主であった[[河北新報|河北新報社]]が興行を担当した。
 
==関連項目==