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{{武士/死没|[[元禄]]8年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1695年]][[9月1日]])}}
{{武士/改名|犬千代(幼名)}}
{{武士/戒名|宝岩院殿静挙供安大禅定門}}
{{武士/官位|従五位下、[[淡路国|淡路]]守、従五位下[[摂津国|摂津]]守[[豊前国|豊前]]守}}
{{武士/藩|[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主}}
{{武士/氏族|[[内藤氏]]}}
{{武士/父母|父:[[内藤信照]]、母:[[阿部正次]]の娘}}
{{武士/兄弟|'''内藤信良'''、[[内藤信全|信全]]}}
{{武士/妻|正室:[[奥平忠昌]]の娘<br />継室:[[松平直基]]の養女}}
{{武士/子|[[内藤信貞|信貞]]、'''''[[内藤弌信|弌信]]'''''、[[内藤信輝|信輝]]、ほか}}
{{武士/終了}}
 
== 経歴 ==
寛永2年(1625年)[[江戸]]に生まれる。同10年[[徳川家光]]に披露され、18年に従五位下摂津守となった。
[[寛文]]5年([[1665年]])に襲封し、豊前守に改める。同11年9月、弟の[[内藤信全]]に新田5,000石を分与。このため棚倉藩の所領は4万5,000石となった。
 
寛文13年([[1673年]])嫡男の[[内藤信貞]]が早世。後嗣として[[内藤弌信]]を迎え、延宝2年([[1674年]])に家督を譲った。元禄8年棚倉において死去。享年71。
 
葬地は[[棚倉町]]の光徳寺、のち[[小石川]]無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(「寛政譜」新訂13巻201頁)。現在は[[村上市]]の光徳寺に墓所がある。
 
『棚倉町史 1』は棚倉藩内藤家を「浄土宗の熱狂的な帰依者」と推測し、また念仏講が盛んに行なわれたとしている。また「井上氏」の「検断日記」にこの行事に関する記事があるという(353から354頁)。
 
== 子女 ==
 
「[[寛政譜]]」は養子・養女を含め三男三女を記している(新訂1巻201から202頁)。
*岡部播磨守[[岡部正敦|正敦]]の妻
*[[内藤信貞]]
*養子・[[内藤弌信]]
*養女:堀市正[[堀通周|通周]]の娘。のち諏訪若狭守[[諏訪頼秋|頼秋]]の妻となる
*[[内藤越前守信朋]](※)の妻
*女子
*[[内藤信輝]]
※204頁の記述に拠る。202頁および東京大学史料編纂所蔵「越後村上 内藤家譜」では「信明」としている。分家となった信全の養子・[[内藤信有]]の嗣子とされている
 
== 出典および参考文献 ==