「三枝昌貞」の版間の差分

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:信玄の[[駿河国]]侵攻のとき、[[花沢城]]攻めで一番槍の武功を立てたことにより、信玄から感状を、昌景から名刀・『吉光』を与えられるほどに賞賛された。
:1575年、[[長篠の戦い]]のときは、[[長篠城]]を監視する目的で[[河窪信実|武田信実]](信玄の異母弟)を主将とした鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの守友は、鳶ノ巣山の山ろくに当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していたため、信実と同様に主戦場から離れたいた。だが、[[織田信長]]の命で送り出された[[酒井忠次]]が率いる織田・徳川の別働隊による襲撃を[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]早朝に受ける。
 
:酒井奇襲隊は、[[河窪信実|信実]]たち武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。ところがその上不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、隣砦の壊滅で敵方には[[松平清宗]]などが増援に加わるが武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・[[三枝守義|源左衛門守義]]、[[三枝守光|甚太郎守光]]たちと共に戦死した。一説によれば守友は、養父の山県姓から本姓・三枝姓に復しての参戦であった、とも言われている。
:守友が討たれた「姥が懐」の付近([[新城市]]乗本)に、「三枝兄弟」の墓碑が在る。