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{{武士/時代|安土桃山時代から江戸時代前期}}
{{武士/生誕|[[1530年]]([[享禄]]3年)}}
{{武士/死没|[[1606年]][[慶長]]11年)}}
{{武士/墓所|[[埼玉県]][[上尾市]]原市妙厳寺}}
{{武士/官位|隠岐守}}
{{武士/藩|武蔵原市藩主}}
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{{武士/終了}}
 
享禄3年(1530年)、三河国東条城主[[吉良持広]]の子として生まれる。初名、義次。持広は、[[松平清康]]の妹を妻にに仕え勢力維持をはかったが、1535年清康が世にいう[[森山崩れ]]で死去。三河は今川氏と織田氏の勢力の狭間となり、苦境に立たされた東吉良、西吉良の両家は反目しあっていたが和睦。義次は幼少の為、東吉良家には、西条[[吉良義堯]]の子義安が養子として迎えられた。義次は西尾城にあったが、織田信長への人質として送られ、桶狭間の戦いを経て、織田信長に仕えることとなる。徳川家康の饗応役を命じられ、[[本能寺の変]]が起こるとこのことを急報し、護衛をして伊賀越えを決行、徳川家康を無事に送り届け、そのまま家康の家臣になった。この功により、1586年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)より「吉」の字を賜り、「吉次」と改名、後は家康に仕えることとなる。天正14年([[1590年]])、徳川家康の関東移封にともない[[武蔵国]]足立郡原市に5000石の所領を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下隠岐守に叙任された。[[関ヶ原の戦い]]で旗本備として功をたて、1602年に美濃国内で7000石加増され、[[原市藩]]を立藩する。1606年死去、娘婿の忠永が家督を継いだ。享年77歳。
 
吉次の再興した菩提寺妙厳寺には織田信長より拝領した永楽通宝紋鞍と鐙があり、埼玉県指定文化財に指定されている。『新編武蔵風土記稿』には、「吉次ゆかりの品」との記載があるが、その後所在不明なっていたが、昭和60年に寺の薬師堂解体の際、その床下から発見された。