「シャルル・ジェラール」の版間の差分

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== 生涯 ==
1816年に[[ストラスブール]]に[[白鉛]]製造業者の息子として誕生した。地元の[[ギムナジウム]]を卒業後、[[1831年]]に[[カールスルーエ]]理工科学校、さらに[[1833年]]に[[ライプツィヒ]]の商業学校へと移り、そこで化学を学んだ。[[1834年]]に一旦実家に戻り家業を継ぐが、肌に合わなかったらしく父の反対を受けながら出奔し、[[ハーゲナウ]]の槍騎兵隊に入隊してしまう。その後[[1836年]]に除隊し、今度は[[ギーセン]]の[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]の元で学んだ。
 
[[1838年]]にリッビビッヒの紹介で[[パリ]]の[[アンドレ・デュマ]]の元で助手となった。ちょうどデュマが[[型の説]]を提唱したのと同じ時期である。[[1839年]]に'''残余の理論'''と呼ばれる[[複分解]]反応に関する理論を提案した。[[1841年]]にデュマのつてで[[モンペリエ]]の化学ファキュルテの臨時教授となった。このころジェラールは存在の連鎖という[[生気論]]的な有機化合物の分類を提示した。すなわち[[脳]]を構成する物質を上位に、[[二酸化炭素]]や[[水]]のような代謝産物を下位に置くような序列構造を考案している。
 
[[1843年]]に相同列([[同族列]])の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。また残余の理論にもとづくと[[イェンス・ベルセリウス]]による[[原子量]]・[[分子量]]の決定法に問題があることを示した。これは[[アボガドロの仮説]]の妥当性を示す第1歩となった。またこの年に[[オーギュスト・ローラン]]と政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間に[[プライオリティ]]についての争いを引き起こした。ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。
 
[[1848年]]にジェラールはモンペリエを離れ、パリにローランとともに私設実験室を作りそこを研究拠点とした。[[1851年]]には不在と[[共和制]]を支持する信条を公言していたことを理由にモンペリエの教授職を解雇されてしまう。[[1853年]]に[[アレキサンダー・ウィリアムソン]]が予想した[[カルボン酸無水物]]を合成することに成功し、その結果から新しい[[型の説]]を提唱した。[[1855年]]にその業績により[[ストラスブール大学]]の教授職を得た。しかしその翌年に39歳の若さで死去した。
 
== 業績 ==