「万寿寺」の版間の差分

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== 歴史 ==
万寿寺の起源は、平安時代後期、[[白河天皇|白河上皇]]が六条内裏に建てた六条御堂にさかのぼる。『京城万寿禅寺記』などによると、白河天皇の皇女である郁芳門院([[てい子内親王|媞子内親王]])が永長元年(1096年)に数え年21歳で亡くなり、それを悲しんだ天皇が皇女の菩提のために六条御堂を建てた。<ref>この六条御堂の所在地について「万寿寺通高倉」とする資料が多いが、『都林泉名勝図会』には「南は[[六条通]]、北は六条坊門(今の[[五条通]])、西は[[東洞院通]]、東は[[高倉通]]」とあり、「万寿寺通高倉」よりはやや南方である。</ref>天皇が出家して上皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。この御堂は、鎌倉時代には法然の弟子・[[湛空]](1176 - 1253)1253年)が住し、湛空から[[十地覚空]]に受け継がれた。この頃には天台系[[浄土教]]の寺であったと見られる。正嘉年間(1257 - 1259)1259年)、十地覚空とその弟子の[[東山湛照]]が東福寺の[[円爾弁円]]に帰依して[[臨済宗]]寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めた。弘長元年(1261年)に開堂の儀が行われている。その後、文永10年(1273年)に火災に遭い、元徳2年(1330年)には[[後宇多天皇|後宇多院]]皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、[[高倉通]]の西、樋口小路(現代の[[万寿寺通]])の南の地点に移転した。付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残る。
 
室町時代には[[京都五山]]の第5位に数えられたが、永享6年(1434年)の火災後、衰微した。天正年間(1573-1592)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転した。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものという。
 
三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併された。明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っている。『東福寺誌』によると、明治14年(1881年)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊とした。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物であった。昭和10年(1935年)には[[京都市電]]と[[東山通]]、[[九条通]]の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。
 
== 建造物 ==