「恵文王 (趙)」の版間の差分

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[[紀元前298年]]、武霊王は、[[中山]]攻略中に太子何に位を譲り、自分は主父と称し、一切を何に任せたが、依然として実権は有した。即位した何は死後恵文王と呼ばれるので、この項でも以後は恵文王で通す。
 
===沙丘の乱===
[[紀元前296年]]、趙は中山を滅ぼし、主父は前太子の章を北方の代に封じて安陽君とした。
 
この主父の好意を見た章は、復位の機会があるのではと思うようになり、そこで策をめぐらして恵文王を殺そうとした。[[紀元前295年]]、主父は章の不満に気づいて、章と恵文王を宴席沙丘([[河北省]])に呼び出して、宴席を設けて中を取り成そうとした。その際、章は兵を配して恵文王を殺そうとしたが、恵文王は何とか逃れ、その間に王の臣が兵を集め章の軍を破った。章は主父の館に逃げ込み、王の兵は主父の館を包囲した。章はここで餓死するが、王の側からすれば主父に対して兵を向けた形になり、包囲を解いて主父を自由にしてしまえばその後で誅殺される恐れがあり、そのまま包囲を続け、主父は餓死した。
 
その後も恵文王は政務を執り続けるが、稀代の戦争上手である主父の時代と比べればその軍事力には衰えが見られ、主父の時代には有利な政略を取り続けていた[[秦]]に対して不利な情勢に陥る。