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== 集合的決定に関する先駆的研究と社会選択理論の確立 ==
社会選択理論は[[20世紀]]の中頃、[[1950年代]]に確立された比較的新しい学問分野とされている。<ref>社会選択理論が確立される契機となったと一般に看做されているアローの一般可能性定理は、''A Difficulty in the Concept of Social Welfare''と題された論文で初めて発表された。この論文が''Journal of Political Economy''に掲載されたのは[[1950年]]のことであった。ちなみに''Journal of Political Economy''は[[シカゴ大学]]の出版する学術誌である。アローは当時シカゴ大学に在籍しており、コウルズ委員会の一員であった。コウルズ委員会とは[[一般均衡理論]]の確立と[[計量経済学]]との統合を目指すグループであり、アメリカにおける[[レオン・ワルラス|ワルラス]]派経済学者の拠点であった。その後1955年にコウルズ委員会の活動拠点はシカゴから[[イェール大学]]へ移った。</ref>しかし社会選択理論の扱う集合的な決定に関する研究は、少なくとも[[18世紀]]に遡ることが出来る。そうした先駆的研究の中でもよく知られているのは、[[ジャン=シャルル・ド・ボルダ]]と[[コンドルセ]]によるものである。ボルダは決定の参与者全員が満足するような投票による決定の手続き・ルールを考察し、後にボルダ方式と呼ばれる方式の基礎を形作った(詳しくは[[投票理論]]の頁を参照のこと。)。一方のコンドルセは[[多数決]]投票法による決定について考察し、いわゆる[[投票の逆理|コンドルセのパラドックス]]を発見した。これは多数決投票法の困難を示すものであった。[[19世紀]]においてはルイス・キャロルのペンネームで有名な[[ルイス・キャロル|チャールズ・ドジソン]]、[[エドワード・ナンソン]]らの研究が著名である。
 
こうした集合的決定の研究、とりわけコンドルセのパラドックスの発見を受け継いで確立されたのが[[ケネス・アロー]]の'''一般可能性定理'''である。一般可能性定理は多数決投票に限らずあらゆる決定の方法が、決定が受け入れられるのに必要と考えられる最小限の条件すら満たし得ないことを示した(詳細は[[アローの不可能性定理]]の頁を参照のこと。)。この集合的決定の困難を証明したアローの定理は様々な方面に衝撃を与え<ref>もっとも一般可能性定理の発表直後の反応は極めて薄いものであった。[[1951年]]にアローのこれまでの研究成果をまとめた''Social Choice and Individual Value''が刊行された際、主要学術誌の一つである''American Economic Review''(AER)は書評を行わなかった。つまりアローの社会的選択に関する研究はほとんど評価されず、またさほど重要なものとは考えられていなかった。その重要性は1950年代の後半から1960年代になりようやく認識され、徐々に様々な方面の研究者を触発したのである。</ref>、一連の重要な理論的研究を生み出した。これにより社会選択理論が一つの新しい学問分野として確立されたわけである。
 
ここまで論じてきたように、アローの定理は確かに長い歴史の中で蓄積されてきた集合的決定に関する研究を受け継いだものである。しかし一方でこの定理は、[[アブラム・バーグソン|バーグソン]]=[[ポール・サミュエルソン|サミュエルソン]]型[[社会的厚生関数]]の妥当性に疑問符をつけるものでもあった。バーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数は当時隆盛を極めていた新厚生経済学の中核をなす概念であり、従ってアローの定理は、[[厚生経済学]]と密接な関係を持っていた。以上のことから、アローの一般可能性定理に始まる社会選択理論は二つの側面を持つ。一つは個人の選好から出発してどのように社会の選好を導くかという集合的決定に関する側面である。もう一つは社会の状態の望ましさを判断、評価することに関わる側面である。すなわち第二の側面は、社会の厚生という観点から経済システムを評価し、その理想的なあり方と改善の方法を模索する規範的な経済学としての厚生経済学に関連する側面と言える。無論この二つの側面を全く切り離して考えられるわけではなく、二つの側面が密接に関連することは論をまたない。
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== 社会選択理論と厚生経済学 ==
 
==脚注==
<references/>
 
== 参考文献 ==