「デヴィッド・ゲフィン」の版間の差分

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1960年代半ばに[[ニューヨーク]]の有名芸能事務所であるウィリアム・モリス・エージェンシーの社員としてキャリアをスタートした。独立後に[[ローラ・ニーロ]]を発掘し、そのマネージャーとなる。彼女の楽曲を[[フィフス・ディメンション]]や[[スリー・ドッグ・ナイト]]に売り込んだことをきっかけに[[ロサンゼルス]]の音楽界に人脈を作り、[[1968年]]頃に同地に拠点を移す。
 
ゲフィン・ロバーツ・カンパニーを、ウィリアム・モリス・エージェンシーの後輩であるエリオット・ロバーツと共にゲフィン・ロバーツ・カンパニーを設立したゲフィンは[[クロスビースティルスナッシュを世に送り名声を得る。ゲフィ&ヤが、[[グ|クロスビー・スティルス&ナッシュ]]を世続く送り名声を得る。新人として[[アトランティック・レコード]]に売り込んだのが[[ジャクソン・ブラウン]]だが、その時[[アトランティック・レコード|]]と契約する際に、アトランティック]]・レコード自社でジャクソン・ブラウンと契約する代わりに、ゲフィンに自身のレーベルを設立することを勧め、その資金を半分出した。これが[[アサイラム・レコード]]である。
 
アサイラム・レコードはジャクソン・ブラウンの他、[[イーグルス]]、[[J.D.サウザー]]などの新人を送り出すと共に、[[リンダ・ロンシュタット]]や[[ジョニ・ミッチェル]]を他レーベルから移籍させ、大成功を得る。一時的だが[[ボブ・ディラン]]と契約していたこともある。[[1973年]]に[[アサイラム・レコード|アサイラム]]は[[エレクトラ・レコード|エレクトラ]]と合併し、ゲフィンは新会社エレクトラ/アサイラムの社長となった。
 
[[1975年]]にはグループ企業の[[ワーナー・ブラザーズ|ワーナー・ブラザーズ映画]]に転出するが、間もなく病気療養の為に一時引退。[[1980年]]に業界に復帰した彼は、ゲフィン・レコードを設立。長らく引退状態にあった[[ジョン・レノン]]の『[[ダブル・ファンタジー|Double Fantasy]]』を送り出し、再び華々しい成功を収める。その後も、[[エルトン・ジョン]]や[[エアロスミス]]といった大御所を他社から引き抜くと共に、[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]、[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]、[[ベック (歌手)|ベック]]といった若手をブレイクさせた。
 
また、ゲフィン・レコードに続いて[[ゲフィン・フィルムズ]]を旗揚げし、『ビートルジュース』などの映画を送り出した。ブロードウェイ・ミュージカル『[[キャッツ (ミュージカル)|キャッツ]]』のプロデューサーの一人でもある。
 
[[1990年]]にゲフィン・レコードを[[Music Corporation of America|MCA]]に売却、[[1994年]]には[[スティーヴン・スピルバーグ]]、[[ジェフリー・カッツェンバーグ]]と共に[[ドリームワークス|ドリームワークスSKG]]を設立した。