「アニメアール」の版間の差分

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[[1970年代]]末、アニメーターの谷口守泰と[[村中博美]]が大阪に設立した作画スタジオがアニメアール(以後、『アール』と表記)である。谷口の第1スタジオと村中の第2スタジオから成っていた。当初は、谷口とその友人が講師を勤めていた[[大阪デザイナー専門学校]]の卒業生を現場参加させてスタート。[[1980年]]代、アニメスタジオの大半が[[東京]]を拠点に活動している中、西日本で殆ど唯一アニメーション制作に関わっており、[[アニメ雑誌]]で人気の高い[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]作品の作画を多く担当したことから、当時のアニメ雑誌でも注目を浴びたスタジオである。ここでアニメのノウハウを学び、現在第一線で活躍中のアニメーターも多い。
 
設立間もない頃のTVアニメ『[[伝説巨神イデオン]]』(1980年)では新人の育成の感が否めず苦戦を強いられるが、その中で以後に[[毛利和昭]]、貴志夫美子、河村佳江などが成長。特に毛利和昭は、当時の若手アニメーターに多くいた[[金田伊功]]フォロワーの中でも、抜きん出たアクション派として頭角を現す。続く『[[太陽の牙ダグラム]]』([[1981年]]~[[1983年]])でのアールの作画は、一転、毛利の素晴らしいメカアクションと谷口のリアル且つスタイリッシュな人物描写で突出する。これに心酔し、アールの門を叩くのが、後にアニメ映画『[[人狼 JIN-ROH]]』([[2000年]])を監督する[[沖浦啓之]]、[[ボンズ (アニメ制作プロダクション)|ボンズ]]設立に携わる[[逢坂浩司]]らである。劇場版『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』(1983年)の新作シーンを担当した後、その流れで[[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]監督の日本サンライズ(後のサンライズ)製作の[[リアルロボット]]物第2弾『[[装甲騎兵ボトムズ]]』(1983年~[[1984年]]) に参加。各話[[作画監督]]を担当した谷口の描く、クールさを前面に押し出す意図的なデザイン変更が施された同作の主人公は「谷口キリコ」と呼ばれ、谷口をはじめアール自体が一躍注目を受けるようになる。やがてアールには、当時新鋭の吉田徹、糸島雅彦、[[日本アニメーション]]から毛利の友人[[加瀬政広]]も加わり、『ボトムズ』の主要エピソードの殆どを担当することになった。
 
== メンバー ==
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:* 糸島雅彦 →画房雅
:* [[沖浦啓之]]
:* [[逢坂浩司]] →[[ボンズ (アニメ制作プロダクション)|ボンズ]]
:* 小森高博 →ボンズ
:* [[Shuzilow.HA|浜川修二郎(Shuzilow.HA)]]