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トホホ川 (会話 | 投稿記録)
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== 沿革 ==
[[大宝律令]]で左馬寮・右馬寮が設置された。当初は頭(左馬頭・右馬頭)を長としていたが、[[711年]]に馬の軍事的な重要性から従五位下ながら[[皇族]]である[[葛木王]](後の[[橘諸兄]])が[[令外官]]である'''馬寮監'''(めりょうげん)に任じられて左右馬寮を統括した。馬寮官は非常設で後に左右それぞれに設置されている。[[765年]]の[[近衛府]]設置と同時に宮中の[[厩]]を扱う'''内厩寮'''(ないきゅうりょう)が分離されて基本的に近衛府の官人がこれを兼ね、残った左右の馬寮も[[781年]]に'''主馬寮'''(しゅめりょう)に統合されて長である'''主馬頭'''(しゅめのかみ)には[[従四位下]]である[[伊勢老人]]が任じられた。[[808年]]には主馬寮を左馬寮、内厩寮を右馬寮と改名して律令制当初の呼称が復活し、[[兵部省]]に属していた[[兵馬司]]を吸収した。その後、馬寮監も'''馬寮御監'''(めりょうごげん/みかん)として復活するが、その職掌は左右馬頭からあげられた儀式の際の馬について報告を[[天皇]]に奏上するだけに留まり、実際には名義のみを継承したものである。ただし、左右[[近衛大将]]との兼務が慣例とされたためにその官位相当は従三位と大幅に上昇しており、馬寮では名目上の最高職であった。[[平安時代]]後期以後は、実質上の最高職である左右馬頭に[[河内源氏]]の著名な武者が相次いで任じられた事から馬寮の職は[[武士]]の憧れの官職の一つとされた(平安時代末期[[格式]]など規定されていた実際の大允・少允の定員は計二十名であったと言う)。[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]では[[征夷大将軍]]がその上に立つ馬寮御監を兼務した。特に[[室町時代]]においては、[[足利直義]]が左馬頭になったのを嘉例とし、将軍の後見職(副将軍的な存在)あるいは次期将軍が就任する職と見なされた。左馬頭となりながら将軍になれなかった例として[[足利義視]]や[[足利義維]]などがいる
 
== 職員 ==