「京極高和」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m リンク、カテゴリ追加
1行目:
'''京極高和'''は('''きょうごくたかかず'''、[[1619年]]([[元和]]5年) - [[1662年]][[11月3日]]([[寛文]]2年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]))は、[[京極氏]]の当主であり[[江戸時代]]初期の[[大名]]。
 
[[1619年]]([[元和]]5年)に[[京極氏]]当主[[京極忠高|忠高]]の弟である[[京極高政|高政]]の子として生まれ、幼名は小法師と称した。
 
[[1628年]](元和14年)に[[松江藩|松江]]二十六万石の[[藩主]]であった伯父の忠高が嫡子を残さずに亡くなった為、その[[末期養子]]となり、[[播磨国|播磨]][[龍野藩|龍野]]六万石へと減封される。
 
[[1631年]](元和17年)に従五位下[[刑部少輔]]に任ぜられる。
 
[[1658年]]([[万治]]元年)に[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩|丸亀]]五万石と[[播磨国|播磨]][[揖保郡]]網干一万石へと移封となる。
 
[[1660年]](万治3年)には讃岐にあり広く信仰されていた[[金刀比羅宮|金毘羅大権現]]を[[江戸]]三田の[[藩邸]]に勧請し、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させた。また、この年には[[丸亀城]]の[[天守|天守閣]]を完成させる。
 
[[1662年]]([[寛文]]2年)に[[京都]]において44歳で亡くなり、徳源院恃英遺達大居士との法名を贈られる。
 
[[藤堂高次]]の娘市子を正室とし、3人の子をもうけ、長男と次女は早世したが、長女は[[対馬義宗]]に嫁いだ。
側室の房子との間に嫡子となる[[京極高豊|高豊]]をもうける。
 
[[Category:江戸の大名|きようこくたかかす]][[Category:武士|きようこくたかかす]]