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'''在日コリアン'''(ざいにちコリアン)は、[[日本]]に[[居住]]する[[朝鮮民族]]である。ただし、どこまでを在日コリアンと呼ぶべきかについては、いくつかの議論がある。
 
在日コリアンという言葉は、日本による[[朝鮮]]の[[植民地]]統治時代から継続的に日本に在住し、現在は[[朝鮮籍]]あるいは韓国籍を持ちながら日本での永住権を持つする人々に限定して用いられることが多い。この場合、日本[[国籍]]を取得して朝鮮系日本人([[日本国籍取得者]])となった者を含まない。ただし、日本の敗戦後になってから日本に渡ってきた者もほとんどの場合は在日コリアンに含まれている。
 
在日コリアンと区別するために、近年来日した人を'''「ニューカマー」'''、敗戦以前から日本に在住する在日コリアンを'''「オールドカマー」'''と呼び分けることもある。
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帰化して日本国籍を取得した者は「朝鮮系日本人」と呼ばれるのが自然だが、現実にはそのような用例は少なく、単に「日本人」とみなされて朝鮮系であることがわからない例が多い。また、日本に帰化した者にも朝鮮系という出自を言明する者は少ない。これらの人々を「日本籍コリアン<ref>集英社新書は姜誠『日本籍コリアン』を[[1999年]]の創刊ラインナップとしていたことがある。その後の発刊予定は不明。</ref>」と呼ぶこともある。
 
「日本籍コリアン」は在日コリアンとは区別されるのみならず、単に「日本人」であるとみなされる場合がほとんどだった。帰化したコリアンも日本人と自認する場合がほとんどだった。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいた。これには、日本在住が数世代を経ていっそう日本人からは区別がつかなくなっていること、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと(現在はそうではないという主張と、現在もそうであるという主張もある<ref>[[金敬得]]、[[鄭甲寿]]など</ref>)、日本国籍を取得しながらコリアンを自認し表明する者がほとんど見られなかったことなどが関係している。しかし、[[1980年代]]末から[[1990年代]]にかけて、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつある<ref>[[朝日新聞]] 1989年10月7日朝刊4頁、など。</ref>。日本籍コリアンを同胞視する在日コリアンも増えている<ref>[[朝鮮学校]]をはじめとする民族学校においても日本籍を含めて多国籍化している。</ref>。
 
== 在日コリアンの呼称 ==
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[[韓国併合]]以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、[[留学]]生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた<ref>[[和田春樹]]・石坂浩一編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 [[岩波書店]]、2002年、102頁。</ref>。[[韓国併合]]以降はその数が急増した。[[内務省]][[警保局]]統計は、[[1920年]]に約3万人、[[1930年]]には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている<ref>和田春樹・石坂浩一・編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 岩波書店、2002年、102頁。ただし、同書は日本に当時在住していた朝鮮人は[[内務省]][[警保局]]統計よりも多いとしている。</ref>。
 
朝鮮人が日本に移入した要因として、大きく分けて二つの社会的変化が挙げられる。第一に、朝鮮における農業生産体制の再編である。併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人[[地主]]と親日派朝鮮人地主へと大量に土地所有権が移動した<ref>宮嶋博史 「朝鮮における植民地地主制の展開」 [[大江志乃夫]]・他・編 『岩波講座 近代日本と植民地 - 4:統合と支配の論理』 岩波書店、1993年、103-132頁。</ref>。これによって多くの農民が土地を喪失、困窮し、離農・離村した。これが日本移住につながった<ref>吉田光男編 『韓国朝鮮の歴史と社会』 放送大学教育振興会、2004年、137頁。</ref>。そして、産米増殖計画による[[米]]の増産と日本への過剰な輸出が朝鮮半島での米価を高騰させて、[[小作農]]をはじめとする人々を困窮させた<ref>朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』 三省堂、1974年、225頁。また、[http://www10.ocn.ne.jp/~war/beikokuyouran.htm 対日輸出量と朝鮮人の消費量の比較]を参照。</ref>ことも日本移住に拍車をかけた。
<ref>宮嶋博史 「朝鮮における植民地地主制の展開」 [[大江志乃夫]]・他・編 『岩波講座 近代日本と植民地 - 4:統合と支配の論理』 岩波書店、1993年、103-132頁。</ref>。
これによって多くの農民が土地を喪失、困窮し、離農・離村した。これが日本移住につながった
<ref>吉田光男編 『韓国朝鮮の歴史と社会』 放送大学教育振興会、2004年、137頁。</ref>。
後に産米増殖計画による増産計画が日本への過剰輸出とセットになってさらに[[小作農]]を困窮させた
<ref>朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』 三省堂、1974年、225頁。また、[http://www10.ocn.ne.jp/~war/beikokuyouran.htm 対日輸出量と朝鮮人の消費量の比較]を参照。</ref>
ことも日本移住につながった。
 
第二に、日本資本主義の発展によって労働力需要が高まったこと、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本移住をいっそう促進した
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<ref>和田春樹・石坂浩一編『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』岩波書店、2002年、102頁。</ref>。
 
[[1945年]]8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人<ref>[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/table/032-7-4.html 日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 1939~45年8月朝鮮人渡来表] - [[法政大学大原社会問題研究所]]</ref>ほどとされている。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった<ref>和田春樹・石坂浩一編『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』岩波書店、2002年、102頁。</ref>。
 
このうちの多くが日本敗戦直前の数年間に渡航したものと思われる。
このうちの多くが日本敗戦直前の数年間に渡航したものと思われる。[[1974年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は[[1941年]] - [[1944年]]の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった)。なお、[[1959年]]に外務省は、朝鮮への[[国民徴用令]]適用は[[昭和19年]]9月から[[昭和20年]]3月までの7ヶ月間であり、現時点で戦時中に徴用労務者として来た在日朝鮮人は245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は犯罪者を除き自由意志で在留した者であるという調査結果を発表している。
*[[1939年]]9月 [[朝鮮総督府]]の後押しで、業者による民間主導の集団的な募集の開始
*[[1942年]]3月 [[朝鮮総督府]]朝鮮労務協会による官主導の斡旋募集の開始(労働者数の割り当て徴発)
このうちの多くが日本敗戦直前の数年間に渡航したものと思われる。*[[19741944年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の9月 日本上陸は政府が[[1941年国民徴用令]] - による[[1944年徴用]]の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった)。を開始<ref>なお、[[1959年]]に外務省は、朝鮮への[[国民徴用令]]適用は[[昭和191944年]]9月から[[昭和201945年]]3月までの7ヶ月間であり、現時点で戦時中に徴用労務者として来た在日朝鮮人は245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は犯罪者を除き自由意志で在留した者であるという調査結果を発表している。</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=63579&servcode=200&sectcode=200 日本政府、強制徴用も縮小・歪曲か] [[中央日報]] 2005年5月16日</ref>
 
この時期は「労務募集」「[[徴用]]/[[強制連行]]」が激増した時期でもあるため、朝鮮人の急激な増加<ref>[[1974年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は[[1941年]] - [[1944年]]の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。</ref>と日本による「労務募集」「徴用/強制連行」との間に因果関係が疑われている<ref>朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974年、251-252頁。</ref><ref name=oisr030>[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-030.html 産業労務動員と国民徴用〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態030〕] - [[法政大学大原社会問題研究所]]</ref>。また、日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、いわゆる[[タコ部屋労働]]のような、自由を奪われた状況に置かれた者も多数あった<ref name=oisr030/>。
 
この間、朝鮮半島での「労務募集」「徴用/強制連行」の実態<ref>研究の一例として、次の論文・調査がある。
*[[日本人の海外活動に関する歴史的調査]] - [[大蔵省]]管理局 1947年
*[[財団法人]][http://www.jkcf.or.jp/ 日韓文化交流基金] - 日韓歴史共同研究委員会 - 報告書(2002-2005年) - [http://www.jkcf.or.jp/history/report3.html 第3分科(近現代)] - ■第7章 戦時体制下の総動員
**[http://www.jkcf.or.jp/history/3/07-0j_kimurakan_j.pdf 木村幹 『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 -- 人的動員を中心にして -- 』] ([[Portable Document Format|PDF]]ファイル、[[日本語]]) - 日韓文化交流基金(公式[[ウェブサイト]])
**[http://www.mofat.go.kr/pdffiles/07-0j_kimurakan.pdf 木村幹 『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 -- 人的動員を中心にして -- 』] (PDFファイル、日本語) - [http://www.mofat.go.kr/ 韓国政府外交通商部](公式ウェブサイト)
**[http://www.jkcf.or.jp/history/3/07-0k_jjj_j.pdf 鄭在貞 『日帝下朝鮮における国家総力戦体制と朝鮮人の生活 -- 「皇国臣民の錬成」を中心に -- 』] (PDFファイル、日本語)- 日韓文化交流基金(公式ウェブサイト)
**[http://www.mofat.go.kr/pdffiles/07-0k.pdf 鄭在貞 『日帝下朝鮮における国家総力戦体制と朝鮮人の生活 -- 「皇国臣民の錬成」を中心に -- 』] (PDFファイル、日本語) - 韓国政府外交通商部(公式ウェブサイト)</ref>がどのようなものであったか、日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活がどのようなものであったか、については、その人数や規模などを含めて、今なお議論が続いている。
 
[[1945年]]以降は[[済州島四・三事件]]や[[朝鮮戦争]]にともなう難民・密航者が日本に流入した。1945年に朝鮮半島に帰還したが動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も在日コリアンのうちに入れられて考えられることが多い<ref>項目冒頭・定義部を参照。</ref>。
 
=== 戦前の在日コリアン ===
[[日韓併合]]によって[[日本]]が[[朝鮮半島]]を[[植民地]]支配するのと前後して、[[朝鮮人]]全般が[[日本人]]による[[差別]]・蔑視の対象とされてきた。
 
朝鮮人に対する政策は日本[[政府]]においても[[朝鮮総督府]]においても紆余曲折を経ている。戦時動員体制の強化にともない朝鮮人の動員を強める必要に迫られたころ、日本政府は[[一視同仁]]の[[プロパガンダ]]のもと、日本人と朝鮮人を同じく扱う政策に傾いた。朝鮮人は旧来の[[日本国民]]([[内地人]])とは別個の法的身分に編入された。しかし、日本国民としては不完全ながら[[公民権]]の一部([[選挙権]]、[[被選挙権]]、公務就任権など)を与えられた。「[[民族]]的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてありえないという宣伝に朝鮮の[[知識人]]が動員された([[李光洙]]など)。朝鮮出身者の中にも、[[日本国民]]として庁に勤務した者がいた。
 
[[第二次世界大戦]]の敗戦<!--([[末期の翼賛選挙では)朴春琴が初当選したのは1932年。翼賛選挙は1943年で、その時には落選。)←なるほど。質問ですが朝鮮名立候補者は大戦中のほう多いのでは?(「敗戦」を書き忘れただけ。戦前と戦中を区別する意図はないので)-->以前に行われた選挙では朝鮮名のままで立候補した者も少数存在し、実際に[[衆議院]]議員に当選した者([[朴春琴]])もいるが、彼らの活動については不明な点が多く、特に日本敗戦後には消息不明の者も多い<!--朴春琴の消息はわかっているので。-->。
 
しかし、朝鮮出身者が併合から、差別・蔑視の対象にされていたことは疑い得ない。日本人が被支配者である朝鮮人に対して蔑視感情を抱いていたことはさまざまな[[メディア (媒体)|メディア]]表現にあらわれている。朝鮮総督府は「内地人(日本人)」による朝鮮人への差別的態度が朝鮮人の[[民族主義]]を育てていると警告を発していたが、日本人による朝鮮人蔑視と差別待遇はあらたまらなかった。
 
[[関東大震災]]の際には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」との[[噂|流言蜚語]]により、無数の朝鮮半島出身者が「不逞鮮人」とされて、自称「自警団」に[[虐殺]]される事件が起きた。虐殺された朝鮮人の実数は当局が把握しているものでさえ明らかにされなかった。自警団も検挙されたが警察に反抗したことなどが罪状であり最高刑は4年であった。当時の[[司法省]]は関東大震災にともなっておきた「明確な殺人事件」の犠牲者は233人であるとした。これに対して朝鮮罹災同胞慰問班が震災直後、10月末日まで調査し、これに基づいて[[吉野作造]]がまとめた調査結果は2613人であった。さらに、その後の調査を付け加えた結果、犠牲者数6433人とされている
<ref>[[伊藤亜人]]・[[大村益夫]]・[[梶村秀樹]]・[[武田幸男]]監修 『朝鮮を知る事典』( ([[平凡社]]、1986年)288)288頁を参照。<br />なお、当時の[[内務省]]調査は虐殺による死者を朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人とした。[[司法省]]はそれを受けて殺人事件数を認定した。この調査結果に関する精査と反駁からはじまった[[姜徳相]]の研究は現在のところ犠牲者約6000名と推定している。おそらくこれを受けて、朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』( ([[三省堂]]、1974年)は「6600人の死亡が確認された」としている(232頁)。
吉田光男 『韓国朝鮮の歴史と社会』( ([[放送大学教育振興会)]])は「数千人の朝鮮人が官民の日本人に虐殺される事件が発生した」(148(148)としている。</ref>。<!--当時の調査と、それを踏まえて現在まで蓄積され相互批判と史料のクロスチェックにされてきた研究とを同列に並べるのは両論併記とは言えません。「少なく見積もる人」と「多く見積もる人」がいるなら現代における前者からの後者への反駁を紹介すべきです。-->
この流言・飛語は<!--内務省内通信を傍受した[[朝日新聞]]が第一報を報じたものであった。--><!--そうなんですか?--><!--以降、-->多数の[[新聞]]社が競って報じた<ref>
</ref>。<!--当時の調査と、それを踏まえて現在まで蓄積され相互批判と史料のクロスチェックにされてきた研究とを同列に並べるのは両論併記とは言えません。「少なく見積もる人」と「多く見積もる人」がいるなら現代における前者からの後者への反駁を紹介すべきです。-->
[http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 電網木村書店 『読売新聞・歴史検証』(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力] - [http://www.jca.apc.org/~altmedka/ 「憎まれ愚痴」国際電網情報基地] -- [[木村愛二]]</ref>。
この流言・飛語は<!--内務省内通信を傍受した[[朝日新聞]]が第一報を報じたものであった。--><!--そうなんですか?--><!--以降、-->多数の新聞社が競って報じた<ref>
[http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 電網木村書店 『読売新聞・歴史検証』(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力]</ref>。
[[布施辰治]]ら[[自由法曹団]]の弁護士たちが朝鮮人虐殺事件の真相究明と責任追及に乗り出したが、少数の動きにとどまった。
 
=== 戦後の在日コリアン ===
==== 帰国と滞在 ====
[[戦後]]の在日コリアンも有形無形の差別にさらされてきた。[[戦前]][[戦中]]から、在日コリアンの多くは日本の一般社会との交流に乏しく、[[港湾]][[鉱山]][[工場]]などでの[[労働]]によって[[生活]]してきた。そのため[[日本語]]を話すことができず、日本で生活していく基盤は脆弱であった。「大部分の人々は終戦後早々に故郷へ帰ってしまったとしても不思議はなかった」はずであるが、約4分の1が敗戦後も日本に定住するに至ったのにはいくつかの要因が挙げられる。
 
* 裸一貫で来日し、帰国しようにも渡航費用を用立てられない人々が多かった。
* [[1947年]]までつづいた日本国外への財産持ち出し制限が影響した。
* 日本で生活をつづけていた人々は、帰ろうにも故郷に生活基盤が残っていなかった。
* [[朝鮮戦争]]による南北分断の混乱が影響した。
* 韓国政府が社会的な混乱のため帰国事業を放棄してしまったことが影響した。これを指して韓国政府による「棄民政策」であったという批判が日本人からも在日コリアンからも起きている。
 
朝鮮人の引揚に関しては、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から日本政府に対して「引揚希望者を全員帰国させよ」という指令があり、船便による具体的な送出人数に関しても指示を出している<ref>[http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]リファレンスコード A05020306400「昭和21年度第2予備金支出要求書朝鮮人送還費」14~15ページpp.14 - 15を参照。<br />P14:p.14:''二.(中略)昭和二一年四月十五日との両日博多と仙崎とからの出航実績は次に示すとおり(後略)''<br />P15:p.15:''四.日本帝国政府は右の送出率を次第に増加させて行き昭和二十一年五月五日迄に仙崎博多両港が一日三、〇〇〇名と一、〇〇〇名の夫々の規定された送出率に確実に達する為に必要な処置をとること。此の送出率は爾後引揚希望の全朝鮮人が日本から一掃される迄保たねばならない''</ref> 。しかし、他方では「帰国の船便が確保できなかった/当初より帰国船便は確保されていなかった」という同時代経験者による証言・指摘も多い。これらは、日本およびGHQの施策を批判する論拠とされることがある。にもかかわらず、当時の実態についてはまだ不未解明な点が多い。
 
==== 戦後の入国 ====
中から敗戦直の大きなにも朝鮮半島から密航者は続き、日本移入の起因とな政府はこれらを取り締また最初のものとて送還して、[[1948年]]の[[済州島四・三事件]]がある。同・事件で起き済州島での虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ<ref>[http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]リファレンスコード A05020306500「昭和21年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」P.2<br />P2:''事由 最近朝鮮人にして密航し北九州及中国西部に上陸する者漸次増加し本年四月中に於て其の総数約一,〇〇〇名に達し益々増加の傾向にあるばかりでなく密輸出入者も亦漸増しつヽあるを以て聯合軍の指示に従ひ関係県に於ては之が逮捕護送送還を行ひつヽあり 仍て此の経費を必要とする''</ref>。戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、[[1948年]]の[[済州島四・三事件]]がある。同事件で発生した済州島での虐殺は、日本への[[難民]]/[[密航]]者を大量に生んだ。このことから「朝鮮人には密航者が多い」との主張に結びつけられることもある。
 
==== 阪神教育事件 ====
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==== 就業実態と経済活動 ====
<!--([[国籍]]を失ったことで就職が困難になり)←それ以前から困難でしょう-->戦後の在日コリアンにとって[[就職]]・就業は困難であり高い失業率と貧困に喘いだ。そのため[[3K]]職場や[[水商売]]く者も多かった。[[暴力団]]員になる者もいた<ref>指定[[暴力団]][[会津小鉄会]]四代目会長・[[高山登久太郎]]<!--本名・姜外秀/カン・ウェス-->は、[[朝日新聞社]] [[論座]]』(1996年9月号11頁)での[[インタビュー]]の中で、「[[ヤクザ]]の世界に占める在日コリアンは三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」という内容のことを答えている。</ref>。また、[[差別]][[貧困]]により[[生活保護]]を受けているケースも少なくない。
 
=== 帰国運動 ===
戦後、在日コリアンの帰国運動が盛り上がったのは、[[1958年]]の[[日本]][[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[赤十字社|赤十字]]会談の開催からである。これには[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、日本、在日コリアンそれぞれに三者三様の思惑があった。「[[千里馬運動]]」を掲げて多数の[[労働者]]を必要とした北朝鮮政府と、当時[[生活保護]]受給者の半数を占めていた「在日問題」を解決したい日本政府、さらには極貧の日本生活を抜け出したい在日コリアンにとってそれぞれの思惑が一致した現象であると見ることができる。
 
このとき帰国運動に参加した在日コリアンのほとんどは[[朝鮮半島]]南部、すなわち[[大韓民国|韓国]]政府が支配する地域の出身者であった。しかしこのころ韓国は[[朝鮮戦争]]による荒廃から立ちなおっておらず、とても帰国者を受け入れる態勢はとれなかった。このこともまた韓国政府の「棄民政策」であったとして後に批判されている
 
日本の在日コリアン団体である[[在日本朝鮮人総連合会]]は北朝鮮政府の指示の下、在日コリアンの「地上の楽園」北朝鮮への帰国を強力に勧誘・説得する活動を展開した。日本の[[新聞]]各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」(旧・日本朝鮮研究所、代表・[[佐藤勝巳]])もこれに同調した。就職差別・他の在日コリアンをとりまく差別に対して何ら対応をとらず、生活保護費の工面[[予算]]捻出に苦慮していた日本政府はこの誇大広告をむしろ歓迎したようである。当時の[[内閣総理大臣]]・[[岸信介]]は国会答弁で帰国運動の「人道性」を訴えて、北朝鮮への帰国事業を正当化した。大韓民国はこれを「北送」と呼んで非難し、[[在日本大国民団|韓国民団]]は「北送事業」への反対運動を展開した。
 
大多数にとって出身地(故郷)ではない北朝鮮へ「帰国」した在日コリアンのたどる運命は過酷であった。帰国者は差別にさらされ、そのいくらかは[[強制労働]]に追いやられ、日本での極貧生活を下回ったとも言われる。行方不明者が多く、処刑されたと言われている者も多い。在日コリアンの子弟ほど突然、[[スパイ]]容疑で[[強制収容所 (北朝鮮)|強制収容所]]に送られるケースが多かったとの証言もある<ref>姜哲煥・安赫・著、池田菊敏・訳 『北朝鮮脱出』池田菊敏訳、 文藝春秋、1994年。</ref>。待遇の実態が次第に在日コリアンへ伝わるにしたがい帰国者は急減し、「帰国運動」は事実上終結した。
 
現在では、帰国運動の際に在日コリアンと結婚して帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」(一部「日本人夫」)の日本帰国も日朝間の解決課題の一つとなっている。ただし、詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの再び北朝鮮へ渡る例もある。
 
== 現在 ==
今日、在日コリアンは、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人[[配偶者]]を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。
 
在日コリアンの諸組織、知識人、朝鮮学校からは長い間「民族の誇りを取り戻そう」という訴えがなされてきた。実際に、本名を名乗り自らのアイデンティティを明確にすることで、在日コリアンが社会の中で認められるようになるケースも見られる。これに呼応して行政側の対応にも変化が起こりつつある。早い時期から民族的アイデンティティの回復を訴えた[[朝鮮学校]]の卒業生は[[各種学校]]卒として日本の[[学制]]から長年にわたって排除されていた。近年では、[[国公立大学]]でも[[2004年]]前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する動きが生じている。これも[[行政]]側の対応変化を反映していると思われる。
 
近年では在日コリアンであることを明らかにして本名で活躍する有名人があらわれてきた。[[芸能人]][[スポーツ]][[選手]]など日本人に触れやすい分野でも在日コリアンの本名を見かけるケースが増えている。[[2002年]][[FIFAワールドカップ]]日韓共催では両国間の友好を深めようとする動きが、その成功・失敗などの評価は別として、メディアを中心に大きく展開さ報じられた。
 
<!--総じて、日本社会での差別意識も次第に薄れつつあるというのが多数を占める<--ソースは?--認識である。-->
一時、改善の動きも見えた北朝鮮との関係だが、[[2003年]]ごろから[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]、北朝鮮の[[北朝鮮核問題|核兵器保有問題]]のあおりを受け、再び在日コリアンに対する圧力、とりわけ朝鮮籍・在日コリアンへの圧力が強まっている。
 
日本統治時代を体験した世代、[[朝鮮戦争]]による南北分断のあおりを受けた世代、あからさまな差別を受けなくなった世代。半世紀あまりの間にさまざまな状況を生きた在日コリアンたちは、日本社会に対してのみならず、世代間の葛藤をも内包している。
 
在日コリアンの一部には、差別意識の薄れに比例して、
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=== 強制連行と渡航 ===
在日コリアンが日本に移入してきたのは、「戦前または戦時下の日本政府による[[強制連行]]([[徴用]])」によるものと語られることが多かった。<!--「語られる」という説明であるから語る側が使った語「強制連行」は必須--><!--(([[徴用]](戦後、左翼はこれを[[強制連行]]と改名))←少なくとも左翼というのは決め付け。ついでに誰が左翼かも定義できないし。そのうえ文脈違い。これら徴用・強制連行はどのみち移入の背景と関係ないので、この段落自体、必要かどうか疑問です。-->
また、同様の認識が漠然としたイメージのまま流布していた時期がある。[[1990年代]]に入って朝鮮人被害者への[[戦後補償]]問題が日本国内で国民的論争課題になると、[[徴用]]/[[強制連行]]に関してもさまざまな角度から議論がなされた。これについては、「[[徴用]]/[[強制連行]]」の定義も絡んで、いまなお認識が分かれている。しかし、少なくとも現在、在日コリアンのうち、その来歴に「旧[[日本軍]]などの[[政府]]機関による直接かつ組織的な[[徴用]]/[[強制連行]]」が関連する者は少数である、と考えられている。このことは、在日コリアン団体である[[在日本大韓民国民団]]の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ[[1988年]]に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに[[徴兵]]・徴用による渡航者の割合は減ることになる。また「官斡旋」による渡航者が徴兵・徴用に含まれている可能性が指摘されている。さらに、[[1974年]]の[[法務省]]・編「在留外国人統計」によると、日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた[[昭和10年]]までに渡航してきた者が全体の53.7%と、半数以上になる点も見逃せない
なお、[[1959年]]には外務省から、戦時中の国民徴用令による徴用朝鮮人労務者は極少数<!--文脈上、実数を書くか、後ろに記された内容と隣接して書くべきでは?-->である事が発表されている。
 
=== 通名 ===
在日コリアンは日本社会において公的私的に有形無形の[[差別]]にさらされてきたため、日本式の姓名、いわゆる[[通名]](通称名)を名乗って朝鮮半島系であることを隠す人々が多く存在する。しかし近年では民族のアイデンティティを取り戻すべく朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには、在日コリアンたちによる啓蒙活動に加えて、韓国の経済発展によって日本で韓国の評価が上昇してきたことや日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも影響している。
 
=== 社会保障問題 ===
在日コリアンに対する[[社会保障]]についても議論が多くなされている。
 
[[1946年]]の旧法の時期を除き改定後しばらく在日コリアンは[[生活保護]]を受けることができなかった。しかし、在日コリアンから最低保障としての生活保護を要求する声が高まったことを受けて、在日コリアンが行政実務において本国から切り離されていることを考慮して、[[1954年]]に通知が出され行政措置として、生活保護を[[外国人]]に準用するという行政運用が行なわれたという経緯をたどっており、これは外国人の生活保護受給者に生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないことになる。
 
ある観点では、生活保護の受給対象者とすることへの異議、また認定の法・基準への異議が出されている。例えば、在日コリアンの生活保護受給率が日本人より多いことから、これを不当であると考え、日本国による生活保護負担を強調する論調がある。実際に、日本の裁判所<!--曖昧。最高裁判例?下級審傍論?-->は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人である在日コリアンを保護する義務はその国籍国にある」とする立場をとっており、日本国籍者に適用を限定して外国人を排除する意図から[[1950年]]以降の[[生活保護法]]には第一条において「国民」との用語が加えられた。
 
=== 北朝鮮問題との関連 ===
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)にともなって、在日コリアン、朝鮮籍在日コリアンへの圧力が高まったことに対して、在日コリアンの立場を、親族を北朝鮮政府に人質同然にされ不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られているとして同情する声もある。
 
しかし「在日朝鮮人の何人かは北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本から送金もかなりの額にのぼるため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。日本統治時代を体験した世代、朝鮮戦争による南北分断の煽りを受けた世代、あからさまな差別を受けなくなった世代。半世紀あまりの間にさまざまな状況を生きた在日コリアンたちは、日本社会に対してのみならず、世代間の葛藤をも内包している。
 
=== チマチョゴリ事件 ===
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=== パチンコ業界 ===
就職差別などから自営業が占める[[パチンコ]]産業に携わっている就業者の在日コリアン比率は他産業より高いとみられる。そのため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず、賭博として規律されておらず、そのことで生まれた収益が北朝鮮への送金を支えているという論評がある。近年は、日本人の経営者や従業員が増えている。
 
=== 外国人犯罪と在日コリアン ===
<!--在日コリアンの犯罪では、北朝鮮問題の影響も大きいとの主張がある{{要出典}}。)ずっと出典がない-->日本国内に流通する[[覚醒剤]]の過半は北朝鮮産が占めていると言われて、拉致問題の発生とその解決がなされていないことなどと相まって、その問題の解決を困難にしている。
 
[[第二次世界大戦]]終結後には、在日コリアンによる犯罪が増加したと言われる。その背景には、
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また、在日コリアンの実態を鑑みれば、単に現行の法制度がそれを反映していないという批判もつづいていた。[[市民権]]概念が存在しないまま[[血統主義]]に基づいて運用されている国籍認定の要件と、多民族化の防止を要諦とする出入国管理行政に対して、排他的かつ植民地主義的であるとするのが主なものである。
 
日本社会の構成員と認定されるためには[[帰化]]するべきだという主張がある。これに対して、帰化するためには日本式の[[人名|姓名]]を事実上強要されるためこと、また国家への忠誠の有無を厳密に調査・検査されると言われてきたこと、[[法務省]]・[[入国管理局]]の審査について係官の裁量が大きく審査基準や経過などの内容も不明瞭であること、などから、在日コリアンにとって帰化は選択肢たり得ないという反論もある。実際に「君主の徳に帰服し徳化されること」を意味する「帰化」の語を忌避する風潮もあり、それを受けて一部のメディアは「日本国籍取得」と言い換えている例がある。
 
出入国管理行政は近年変化を見せていると言われることがある。例えば、帰化に際して日本式の姓名である必要はないと言われている。にもかかわらず、朝鮮式姓名で日本国籍を取得し戸籍を作成したと言明する者があまり見られないことも関係している<ref>結婚によって「孫」の姓で日本人の戸籍を作り入籍した[[孫正義]]の朝鮮姓による国籍取得は例外的である。</ref>。<!--しかし、在日コリアンではないがハーフナー・マイクやエリック・マッカーサーのように、外国人名のまま日本国籍を取得する人間も存在していることは事実であるので、本人が望めば(かつてはともかく、現在では)朝鮮式姓名は維持されると思われる。)←これは推測です-->
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== 参考文献 ==
=== 参照文献 ===
* [[吉田光男]]編著『韓国朝鮮の歴史と社会』[[放送大学]]教育振興会]]、2004年。ISBN 4595237596
* 朝鮮史研究会編・旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』[[三省堂]]、1974年。ISBN 4385342555
* [[福岡安則]]・[[金明秀]]『在日韓国人青年の生活と意識』[[東京大学出版会]]、1997年。ISBN 4130560522
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== 外部リンク ==
* [http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/shinbun/ 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索] - [[京都大学人文科学研究所]]
 
 
[[Category:朝鮮|いにちこりあん]]
[[Category:日本の民族|こりあん]]
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