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'''ドーラビーラ(Dholavira)'''は、[[インド]]、[[グジャラート州]]に所在する[[インダス文明]]の大都市遺跡のひとつである。地元では''Kotada Timba Prachin Mahanagar Dholavira''(コターダ・ティムバ・プラーシン・マハナガール・ドーラビーラ)と呼ばれている。北緯23度52分東経70度13分の[[カッチ湿原]]のなかにあるカディール(''Khadir'')島に立地し、[[雨季]]になると南北の川に水が流れ、周囲を水に囲まれるようになる。ドーラビーラの居住がはじまったのは、[[紀元前2900年]]頃からで、[[紀元前2100年]]ごろから徐々に衰退に向かっていく。そして短期間の放棄と再居住がおこなわれ、最終的に放棄されるのは、紀元前1450年ごろである。
 
ドーラビーラは、1967年に発見され、インド亜大陸で5番目に大きなインダス文明遺跡と目されている。1989年以降、[[インド考古局]]の R. S. ビシュト(Bisht)の指揮によって[[発掘調査]]がおこなわれている。発掘調査によって、ドーラビーラの複雑で精緻な都市計画と建造物を日の目にさらすことになった。
ドーラビーラは、同じく港湾都市であった[[ロータル]]よりも古かったと考えられ、その居住の範囲は100へクタールを超える壮大なものである。ドーラビーラも[[ハラッパー]]や[[モヘンジョ・ダロ]]のように「城塞」と「市街地」で構成された構造をもち、外壁で囲まれた範囲は東西方向770~780m、南北620~630mに達する。外壁の外側にも街を支える人々の居住地が広がっている。
==「城塞」と貯水槽==
[[画像:A water reservoir in Dholavira.jpg|thumb|300px|ドーラビーラの城塞付近にある貯水槽]]
 
「城塞」は、都市の南西部に位置し、一辺140m、高さ15m、幅10mの壁に囲まれて聳え立つような威圧感を示す。東西南北にそれぞれ「城門」をもち、西側には外郭ともいうべき施設があり、北側には儀礼を行ったと考えられる350m×80mの広場のような長方形の施設がある。城塞の南西隅には、直径4m4mの巨大な井戸があって、城塞の中央を東西方向に横切る「通り」の南に面した2ヶ所の半地下式の「[[沐浴]]場」に水路でつながっている。
「城塞」の城壁は、内部に向かって傾斜していて、少なくとも北門の近くと東門の近くには雨受けが設けられ、東門近くの雨受けには、滑り台のような石板が備えられて、雨水を集水溝に流し、集水溝に集められた水は「城塞」の地下にある水路を通って城塞の西側にある外郭の特別な貯水槽に集められる仕組みになっていた。「城塞」は神聖な空間と考えられていることから、そこに降る雨は特別な意味をもたされていたのかもしれない。また外郭には[[紅玉髄]]などをビーズに加工する「官営」ともいえ推定される工房が設けられていた。
 
「城塞」の東門を出ると、階段が設けられた幅25m以上、岩盤までくりぬいて深さ7m7mに達する貯水槽がある。また「城塞」の南方向にも幅35m以上、横26m、深さ7m7mの貯水槽が発見されており、両者はべつものなのかつながるのかは今後の調査を待ちたい。
ドーラビーラの周辺は[[降水量]]が少なく雨季に集中的に降る雨水で増水した南北の川をたくみにせき止めて、標高の高い貯水槽から低い貯水槽へ水がたまるように外壁のすぐ内側、西側、北側、南側に幅数十メートルの貯水槽が設けられていた。
==建物の建材==
ドーラビーラの建造物は、この「街」の周辺で採掘される[[石灰岩]]を、[[モヘンジョダロ]]の[[レンガ]]と似たような大きさに切り出した直方体の石を積み上げて立てられている。石を積み上げている建物の構造や、この地域で採取される石灰岩が水をよく浸透させ、土へしみこませることから街自体に乾燥と暑さをしのぐ構造をもたせていたのかもしれない。一方で、発掘調査をおこなっているビシュト博士は、石灰岩に見られるピンク色の文様から街全体がピンク色に見えたかもしれないと考えている。