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古田は[[親鸞]]研究での堅実な実績で知られ、当初は『[[史学雑誌]]』78-9や『[[史林]]』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説についても一時期は[[高等学校]][[日本史]][[教科書]]の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の[[紀要]]を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって主張する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。1990年代に『[[東日流外三郡誌]]』に古田が深く関与し、同書が[[偽書]]であることが強く疑われると、本来本説と同書に関する議論とは直接的な関係はないものの、古田が同書の一節「磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり」を本説の補強に考えていた<ref>古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版</ref>こともあり、本説をも誤謬であると断ずる声もあがった。
 
歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいないこと、考古学の資料分析の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとみなしており、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、現在では主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されることなく無視されている。
 
その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ[[皇国史観]]の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれ、現在も研究がなされている。