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明治37年の[[日露戦争]]は日本の海運界に新しい活を生み出すものであったが、ことに神戸海運界ではこの時期に、土着の社外船主の出現が画せられた。新兵衛はこの情勢を見逃すことなく機敏に商機をとらえ醸造業から海運業へと転換し、わが国海運ブローカーの鼻祖ともいわれる[[佐藤勇太郎]]のすすめで、船齢22年の舶来中古船を購入し、兵庫県出身の最初の社外船主として名のりをあげた。新兵衛は自家醸造酒の名称をとって「'''乾坤丸'''」と名づけた。以後新兵衛は買船現金主義をとった。買船はことごとくイギリスの中古船をねらい、その支払いはすべて現金に徹した。また新兵衛は、どの保有船にも保険はかけなかった。所有船が遭難してもサルベージ会社に頼まず、みずから遭難現場におもむき、何月もかかって離礁に成功するという、いわゆる「'''乾式手弁当サルベージ'''」を敢行した。これらは新兵衛の人並みはずれたケチケチ主義、じつは徹底した合理主義、すなわち独特の堅実無比な海運経営が信条であった。
 
こうして明治41年には'''乾合名会社'''を設立し、所有船四隻(のち七隻)を数えるオーナーとなり、第一次大戦ブームを迎えて、[[山下亀三郎]][[内田信也]][[勝田銀次郎]]のいわゆる'''船成金'''[[岡崎藤吉]]とともに「'''神戸海運五人男'''」と称せられることとなった。新造船に熱中した船成金が第一次大戦後の反動で手痛い打撃を受けた際も、中古船主義をかたくなに守り抜いていた新兵衛は涼しい顔をしていた。
 
新兵衛のケチケチ主義は人並みはずれて徹底したものであったが、大正7年の米騒動のときには2万円を神戸市に、関東大震災のときにも3万円を寄付した。