「成田空港管制塔占拠事件」の版間の差分

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===地下道侵入===
3月25日深夜、[[前田道彦]]をリーダーとする行動隊(第4インター15人、プロ青同4人、戦旗派3人)が排水溝から、空港内への潜入を図る。当初は[[ベトナム戦争]]時の[[テト攻勢]]になぞらえて22人編成の行動隊だったが、排水溝に入る際に第4インターの7人が機動隊に捕捉され潜入に失敗する(1人が逮捕、6人は逃れて翌日の第8ゲート突入部隊に参加し逮捕される)。排水溝から空港内に潜入した十五人は、翌日午後1時を期して地上に突入するべく地下道で夜を過ごす。
 
3月26日、旧[[菱田小学校]]跡地にて、三派を中心とする「空港突入総決起集会」が開催され4千4000人の赤ヘルメットで校庭が埋まった。おなじ日に空港反対同盟主催の集会が三里塚第一公園で予定されていたことから、「分裂集会」という批判が他の新左翼党派などから寄せられたが、[[三里塚・芝山連合空港反対同盟]]委員長の[[戸村一作]][[熱田一]][[小川むつ]]らは批判をはねのけて、この「空港突入総決起集会」で発言する。正午、参加者は集会後ただちに空港に向けて進撃する。また、前日からふたたび「横堀要塞」に立て篭もって、機動隊との攻防を開始する部隊もあった(空港反対同盟幹部の石井武、[[北原治]]、秋葉哲らも支援者とともに立て篭もった)。和多田の作戦は、機動隊の主力を「要塞戦」などに分散させ、その隙を突いて管制塔を占拠するというものだった。機動隊は全国から動員した一万四千14000人の警備体制を敷いていたが、和多田の作戦は結果として成功を収めることになる。
 
===管制塔占拠===
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午後1時5分、地下の赤ヘル部隊15人がマンホールから空港内道路に這い出した。直後、数人の警官が発見し「(空港構内から)出ろ!出ろ!」と拳銃を向ける。行動隊と警官が対峙する中、警官の後方では、第9ゲート部隊の空港突入に対処すべく機動隊の部隊が走り抜けていった。行動隊は意を決し、拳銃を向けた警官を突破し、追跡を振り切って管理棟敷地内に進入した。
 
直前、第9ゲート部隊のトラックによる火炎攻撃によって、管制塔玄関前は混乱していた。その隙をつき行動隊は管制塔への突入に成功する。行動隊5人が1Fで警官、機動隊を阻止する中、10人がエレベーターを乗り継ぎ階段を駆け上り14Fにたどり着いた。15Fへは鉄の扉で阻まれるが、6人が14Fのベランダから16Fの管制室に至った。こうして管制塔占拠は成功し、行動隊は、管制塔内のあらゆる通信機器を破壊した。管制官たちは、管制塔の屋上に避難したが、行動隊は「人質を取らない。民間人は空港関連に従事する者でも危害を加えない」という規律が課せられていたという。結果として、危害を加えられた民間人は一人もいなかった。
 
行動隊の管制塔突入により警備側の指揮系統が混乱する中、迂回路を巡って第8ゲートにたどり着いたトラック先頭の300人の部隊も「管制塔占拠に合流せよ!」と空港の奥深くまで進撃。空港の各所で火炎瓶が飛び交い、態勢を整えた機動隊はピストルの乱射をももって応戦する騒乱状態となった。管理棟内にあった警備本部は算を乱して避難し、警察・機動隊の指揮系統が一時乱れた。
 
空港に突入した大部隊の多くは撤収に成功する。行動隊はまず管制塔1F組が機動隊にリンチされ」の末逮捕、夕方になって、管制室の6人、14Fの4人も逮捕された。結局、管制塔突入部隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」篭城部隊(28日にあらかじめ掘ったトンネルから脱出を図るが、掘削の方向を間違えて秋葉と支援者41名全員逮捕。前日に北原と石井および支援者7名が逮捕されている)、空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて計168名が逮捕された。しかし、空港突入時にトラックに乗り合わせた山形大生・新山幸男が、警官隊の発砲した弾丸が積んでいたドラム缶に直撃した際に服に引火して転げ回っている最中にも機動隊員に盾で殴打され続け、全身火傷で二ヵ月後に死亡する(警官隊の発砲で1名が足を弾丸が貫通する重傷を負った)。
 
また、同時刻頃、三里塚第一公園では、一万五千15000人を結集して、三里塚・芝山連合空港反対同盟主催の集会が開催されていた。集会中に「管制塔占拠」の報を受けた参加者たちは、大歓声を上げた。そして、機動隊などのなんらの規制もないままにデモ行進に出発する。反対同盟の青年行動隊は、この集会に参加していた[[中核派]]などの新左翼党派に空港に突入するよう要請したが聞き入れられず、このデモ行進は平穏のうちに解散する。
 
==余波==
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===裁判闘争===
管制塔を占拠した十五15人と計画立案した和多田、共産同戦旗派の首謀者と認定された佐藤一郎は起訴され、全体計画の首謀者に認定された和多田と行動隊リーダーの前田が[[航空危険罪]]などで十年以上の懲役をはじめ、全員が実刑判決を受ける。被告の一人である原勲は、82年4月に長期拘禁からくるノイローゼの発作によって、釈放された数日後に自殺した。
 
また、1995年に確定した空港公団(当時)による損害賠償請求の執行が、時効直前の2005年に給与差し押さえなどの形で開始される。四千三百八十四万円に利息五千九百十六万円の計一億三百万円という請求額だった。元被告たちは、ふたたび結集し、支援者たちと7月から「一億円カンパ運動」を開始。インターネットを主な媒体にしてかつての活動家世代を中心に、11月までにのべ二千人から一億三百万円のカンパを集めきることに成功して、11月11日に[[法務省]]で完済した(元被告たちは、このカンパ運動を「一億円叩きつけ行動」と称している)。
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=== 管制塔占拠部隊 ===
*[[太田敏之]] 当時24歳。岡山大生。プロ青同。14Fベランダのパラボラアンテナから16F管制室への突入路を開拓。
*[[小泉恵司]] 当時23歳。山形大学生。第4インター。死亡した新山とは親友で、直前に部隊任務を交代していた。3030キロ近くあるガスカッターをかついで走るも着火装置を忘れていた。14Fで残って機動隊を阻止。
*[[児島純二]] 当時21歳、千葉郵便労働者。第4インター。獄中で「待つのに疲れました」と彼女にフラれる。
*[[高倉克也]] 当時21歳、早稲田大学中退。第4インター。管制室に仲間を向かわせるために、管制塔1Fで警官の追撃を阻止。
*[[津田光太郎]] 当時24歳、龍谷大生。プロ青同。巨漢。1Fで警官の追撃を阻止する際、凄まじい形相で[[しこ]]を踏んで立ちふさがったという。
*[[中川憲一]] 当時31歳、国鉄下請労働者。プロ青同。最年長者で、御意見番として部隊を補佐。破壊中の管制室で公団から「破壊しないでくれ」と懇願する電話がかかってくるが、「ただいま占拠中!」と電話をきる。
*[[中路秀夫]] 当時23歳、金属労働者。第4インター。14Fで残って機動隊を阻止。冷静的確にマイクロ通信室とパラボラアンテナを破壊。
*[[原勲]] 当時23歳、自動車整備工。プロ青同。管制塔1Fで警官の追撃を阻止。「ひょうきんもの」で周囲を爆笑させていたが、獄中で拘禁症に苦しみ、治療を受けていた東大病院から飛び降り自殺を遂げた。享年28。
*[[平田誠剛]] 当時22歳、立命館大生。第4インター。14Fで残って機動隊を阻止。『もぐら道三〇〇〇日』の著者。文才もある美男子。
*[[前田道彦]] 当時25歳、第4インター。16歳から街頭闘争に参加していた。学生インター(第四インターの青年組織・共産青年同盟の前身組織の一つ)が組織的にエキストラ出演した映画『襤褸の旗』で、上京して窮状を訴えようとする農民を弾圧する役を演じた。75年に第四インターが「ベトナム革命勝利連帯」を掲げて行った外務省突入占拠闘争でも一年服役している。3.26闘争では行動隊長として部隊を統率、的確な指示により管制塔占拠、開港阻止を成功させた。
*[[水野隆将]] 当時22歳、埼玉郵便労働者。地下道では困難な偵察を行った。共産同戦旗派。美男。松本伊代ファン。当時70歳を過ぎた父親は、連行される水野をニュース映像で観て、息子が活動家だったと知る。当初は反発した父親は次第に理解を示すようになり、晩年は「管制塔被告団家族会」の会長も務め、裁判の意見陳述では「息子を誇りに思っている」と語った
*[[山下和生]] 当時20歳。共産同戦旗派。地下道では困難な偵察を行った。早見優、石川秀美ファン。
 
=== 他 ===
*[[佐藤一郎]] 戦旗派。行動隊に指示したとして逮捕。指名手配となったことを床屋で髪を切っているさなかに知った。床屋もそれに気づいたが「髪をこうすれば誰も気付きませんよ」とハサミをすすめたという
*[[新山幸男]] 当時24歳、山形大生の第四インター。第9ゲート突撃部隊。管制塔直下で火だるまとなり、2ヵ月後に死亡。
*[[和多田粂夫]] 当時37歳。第4インター。現地闘争キャップ。行動隊による管制塔占拠計画を立案。ブランキを敬愛。
 
== 参考文献 ==