「王朝国家」の版間の差分

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Shimoxx (会話 | 投稿記録)
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11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。この流れの中で、それまで公田経営請負によって(つまり田堵・負名層となることで)武人としての経済基盤を与えられていたに過ぎなかった武士が、荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国の下部組織である郡、郷、別名、保、条、院や、一円化してまとまった領域を形成するようになった荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた[[荘園公領制]]の出現を意味するものであり、これと相前後して開始した[[院政]]と併せて、11世紀後期には既に中世に入っていたと見ることもできる。そうした立場からは、古代から中世への過渡期に位置づけられるべき王朝国家体制期は、11世紀中期に終わったのだとする見解も出されている。
 
また一方では、王朝国家と呼ぶべき政治実態は、鎌倉幕府成立後の朝廷にも見られるとして、13世紀の朝廷による支配体制も王朝国家体制期に含める意見(佐藤進一,1983など)もある。
 
== 研究史 ==