「パークナム事件」の版間の差分

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==事件==
[[Image:Art_of_Paknam_incident.jpg|250px|thumb|パークナムでの紛争の様子。(ジョセフ・ナッシュ画:『The Graphic』[[1893年]][[8月26日]]号掲載)]]
[[1893年]][[7月13日]]夕方、フランス海軍は2隻の戦艦で[[チャオプラヤー川]]の河口から上流へ進入しようとした。フランス海軍はこのときタイの官警から警告を受けたが無視した。現在の[[サムットプラーカーン]](河口にあるため俗に、パークナム(河口)と呼ばれる)へまで進むと、タイ軍は備え付けの大砲と軍艦で攻撃したが、近代的軍備のフランス海軍戦艦には歯が立たなかった。一方、軍艦2隻は10時頃までに[[バンコク]]、チャオプラヤー川東岸にある[[フランス大使館 (バンコク)|フランス大使館]]へ着くとタイ政府に「メコン川東岸のフランスへの割譲」を求めた。これは国家存続を揺るがす大きな問題とタイ政府は認識した。当時のタイの君主であった[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)は割譲を拒み、賠償金で済ませようとして、フランスとインドシナ問題において対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと試みたが失敗。結局、メコン川西岸全域を割譲する事になったが、ラーマ5世はこれを「死刑を待つ死刑囚の様な悲しみ」と表現し寝込んでしまった。一方、バンコク都民はこの異常事態において混乱を極め、フランス軍の発砲を恐れて逃げ回った。
 
==その後==
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==影響==
この事件の後敏感に反応したのは、インドシナ進出を狙っていたイギリスであった。フランスが破竹の勢いでタイに迫り、イギリスの領域を侵しかねない状況であったからである。[[1896年]]、イギリス・フランス両国は'''英仏宣言'''を発表した。この宣言では、タイはイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。また、[[1904年]]には[[英仏協商]]が成立。イギリスはチャオプラヤー川東岸を、フランスはチャオプラヤー川の西岸を勢力の限界と定めた。
 
一方、床に臥した[[ラーマ5世]]は、賠償金を貸してくれなかったイギリス・武力行使を行ったフランスに不信感を募らせ、今までのような両国との関係を重視していた外交政策を転換し、[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[日本]]などとの外交に重点を置いて外交多角化を図った。