「ディレクトーリヤ」の版間の差分

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1918年12月後半には、反革命干渉軍はその勢力を増し、[[ハンガリー]]、[[チェコスロヴァキア]]、[[オランダ]]、[[バチカン]]、[[イタリア]]などがそれぞれの利権に基づいてウクライナへ侵攻してきた。また、ボリシェヴィキ勢力も[[ウクライナ人民共和国]]([[ウクライナ・ソビエト共和国|ウクライナ・ソヴィエト共和国]])を受け皿にその勢力を増し、キエフは幾度となくその支配を受けた。
 
[[1919年]]末、キエフを追われたドィレクトーリヤは一旦[[ポーランド]]へ撤退した。そして、態勢を整えて反撃の機会を窺った。執政官としてドィレクトーリヤを率いていたペトリューラは、ボリシェヴィキを撃退するために歴史的に「民族の敵」と看做されてきていたポーランドの力を借りる決意をした。[[1920年]]3月、[[ルブリン]]で交換条約が締結された。それは、ドィレクトーリヤがポーランドの[[リヴィフ|リヴィウ]]など[[ガリツィア|ハリチナー]]地方の領有を認める代わりに、ポーランドはドィレクトーリヤをウクライナを代表する唯一の政府として承認し、侵略者をウクライナ領内から排除することを全面的に支援する、というものであった。
 
だが、ポーランドと合同するということは、同時にそれまで友好関係にあった同じウクライナ人の組織[[西ウクライナ国民共和国]]との連合を放棄するということも意味していた。同共和国は、領域に侵略するポーランドを国家存亡における最大の敵と看做していたのである。同共和国の軍事組織である[[ウクライナ・ハルィチナー軍]]はのち、ポーランドを駆逐するためロシア赤軍と合同するというドィレクトーリヤとは正反対の道を選ぶこととなる。