「フランス共産党」の版間の差分

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フランス共産党は、1979年のソ連軍による[[アフガニスタン]]侵攻や1980年の[[ポーランド]]干渉になどついて、常にソ連邦政府を全面的に支持した。また、ソ連邦の[[核兵器]]保有を全面的に支持していたが、[[ソ連共産党]]の[[ゴルバチョフ]]書記長が1986年1月に「2000年までに全世界から核兵器をゼロにする」という提案を発表すると、フランス共産党は「ゴルバチョフ同志の提案を我が物にする」と核兵器の廃絶を訴えるようになった。1991年のソ連邦崩壊による各種文書の情報公開によって、ソ連共産党が長年にわたってフランス共産党を資金援助していたことが明るみになった。
 
90年代の[[ジャック・シラク]]大統領と社会党と「第三次保革共存([[コアビタシオン]])」時代に同党のゲソが運輸相に[[マリー・ジョルジュ・ビュフェ]]青年・スポーツ相に入閣する。この時期の共産党指導部は[[新自由主義]]的改革とそれに伴うフランスの伝統的な福祉政策の転換に反対せず「ゲソ同志を困らせるな」をスローガンにして労働組合などの「[[民営化]]反対」の要求・運動を抑制した。[[2002年フランス大統領選挙]]では、書記長のロペール・ユが出馬して歴史上初めて[[トロツキスト]]政党である「[[労働者の闘争党|労働者の闘争]]」(LO)や「[[革命的共産主義者同盟 (フランス)|革命的共産主義者同盟]]」(LCR)の候補の得票を下回った。ユ指導部は、この大敗の責任を取って退陣、ビュフェを書記長に選出して新しい指導部は「新自由主義反対」を強く打ち出すようになる。しかし、ユら旧指導部は、現在のビュッフェ路線を「反対ばかりで対案がない」と批判する。また、ビュフェ指導部も、ユ時代の「民営化推進路線」そのものを自己批判しているわけではない。
 
1989年の段階で党員数20万人と発表していたが、現在は衰退著しく、その半数以下と思われる。大衆運動の現場では、トロツキスト勢力との共闘も深めており、路線に若干の幅を見せている。しかし、近年は「[[社会主義]]的理想主義」を掲げる若手党員は主にLCRに、あるいは同党の「[[愛国主義]]的伝統」をアイデンティティーにする古参党員は[[極右]]政党の[[国民戦線]]に(それぞれ場合によっては地方・下部組織ごと)移行しているケースも少なくなく、フランス共産党は組織存亡の渕に立たされているといえる。
 
==2007年フランス大統領選==
フランス共産党は、2005年の[[EU]]憲法批准の是非を問う国民投票に際して、「反[[新自由主義]]」の立場から批准に反対し、反対派の勝利に一定の貢献を果たした。このEU憲法批准に反対した反新自由主義左派グループ(フランス共産党、革命的共産主義者同盟-LCR、[[緑の党 (フランス)|緑の党]]、労働者の闘争-LO、など)は、「5月29日全国コレクティブ」(「5月29日」はEU憲法批准反対派が国民投票で勝利した日)を形成して[[2007年フランス大統領選挙]]を睨んで左派統一候補を擁立する議論を行い、「全国コレクティブ」は投票で共産党の書記長[[マリー・ジョルジュ・ュフェ]]を選出した。しかし、LCRは「共産党の組織力を背景にした多数派工作による選出」と反発した。ブュッフェは「共産党色」を薄めるために、書記長職の辞任を示唆したが結局「全国コレクティブ」は決裂し、「反新自由主義」各党がそれぞれ候補者を擁立する結果となった。LCRが共産党のユ指導部時代の民営化政策の撤回を迫ったが、共産党がそれを拒否したことも決裂の一因となった。また、ビュフェを「反新自由主義の代表としての候補」か、あるいは「伝統的共産党の候補」として擁立するかで共産党内部でも意見が二分したが、最終的にはブュフェは「共産党と無党派市民の共同候補」という体裁で、同党初の女性大統領候補として立候補することになった。
 
フェは大統領選第一次投票で、707,327票の得票(得票率1.94%)の12人の候補者中7位に留まり、前回の3.37%からさらに後退した。「[[トロツキスト]]候補」であるLCRの[[オリヴィエ・ブザンスノー]]候補にも大きく水を開けられ(ブザンスノーは4.11%を獲得)、この間の共産党の退潮傾向にさらに拍車をかける結果となった。フランス共産党は、[[フランス社会党]]の[[セゴレーヌ・ロワイヤル]]候補と右派の[[ニコラ・サルコジ]]候補の対決となった決選投票において、ロワイヤルへの投票を呼びかけている。
 
==関連項目==