「フランス共産党」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目:
フランス共産党は、[[コミンテルン]]のフランス支部として活動し、[[スターリン]]がコミンテルンを実質支配した1930年頃から、コミンテルンが解散した戦後においても各国の共産党に比べても際立って[[ソビエト連邦|ソ連]]の政策を支持する傾向が強く、「[[モスクワ]]の長女」と揶揄された。その傾向はソ連邦の崩壊まで続いた。
 
===人民戦線からレジスタンスまで===
1930年代初頭は、スターリンとコミンテルンが提唱した「[[社会ファシズム論]]」を実践して、フランス社会党に激しい攻撃を加えたが、1933年に[[ドイツ]]で[[ナチス]]が政権を獲ると、フランスでもファシズム運動が起こっていたことから労働者の間で「反ファシズム統一戦線」の気運が高まった。その気運は[[人民戦線]]運動として結実し、1936年には人民戦線政府が樹立された。フランス共産党も人民戦線運動に貢献したが、入閣せず閣外協力の形でこの政府に協力した(したがって、フランス共産党はこの政府に協力するために労働者のストライキ運動を「権利獲得運動」の枠内に抑制した)。このフランス共産党の「社会ファシズム論」から「人民戦線」への転換は、ナチスの軍事的脅威からソ連邦を守り、かつヨーロッパの社会主義革命運動の高揚を怖れたスターリンの意向が働いている。
 
1938年に人民戦線政府が崩壊し、1939年にスターリンが[[独ソ不可侵条約]]を締結すると、フランス共産党は一転して「反ファシズム」ではなく、「フランス帝国主義およびアメリカ・イギリス帝国主義反対」を強く打ち出すようになる。独ソ不可侵条約を支持したことで、党員の三分の一が反発して離脱し、政府からは「利敵団体」として非合法化された。1939年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)秘密地下組織となったフランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、兵器工場でのサボタージュを労働者に呼びかけ、いくつかの工場をテロによって破壊した。また、戦線のフランス軍兵士に「帝国主義者同士の戦争に手を貸すな」と戦線離脱を呼びかけた。フランス敗北後は、当初は合法政党化を期待して占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し(指導者のジャック・デュクロは回想録でこのことを認めている)、[[アナーキスト]]や[[トロツキスト]]の名簿をナチスに渡したりしている。
 
1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンスを開始する。フランス共産党のレジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。また、フランス共産党は、「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ドゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」(現在のルペンらの同名組織とはまったく無関係)を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。以降、「[[愛国主義]]」は、フランス共産党のアイデンティティーとなり、「プロレタリア国際主義」はソ連邦政府の政策の追随を意味するようになる。
15 ⟶ 16行目:
1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりと相成って「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させる。しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者・モーリス・トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。また、戦後の[[ドゴール]]政権では、フランス共産党の書記長トレーズが副首相として入閣した。1945年の総選挙では126議席を獲得して、第一党となった。この時期が、同党のピークといえるだろう。
 
===戦後の活動===
1968年の[[五月革命]]においてフランス共産党は、影響下にある労組ナショナルセンターであるCGTを通じて労働者のストライキを組織したが、[[ダニエル・コーン=ベンディット]]らの急進的な学生運動を一貫して否定し、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠を積極的に推し進める[[アナーキスト]]や[[トロツキスト]]たちを「挑発者」として、激しく非難した。
 
24 ⟶ 26行目:
フランス共産党は、1979年のソ連軍による[[アフガニスタン]]侵攻や1980年の[[ポーランド]]干渉になどついて、常にソ連邦政府を全面的に支持した。また、ソ連邦の[[核兵器]]保有を全面的に支持していたが、[[ソ連共産党]]の[[ゴルバチョフ]]書記長が1986年1月に「2000年までに全世界から核兵器をゼロにする」という提案を発表すると、フランス共産党は「ゴルバチョフ同志の提案を我が物にする」と核兵器の廃絶を訴えるようになった。1991年のソ連邦崩壊による各種文書の情報公開によって、ソ連共産党が長年にわたってフランス共産党を資金援助していたことが明るみになった。
 
===近年の活動===
90年代の[[ジャック・シラク]]大統領と社会党と「第三次保革共存([[コアビタシオン]])」時代に同党のゲソが運輸相に[[マリー・ジョルジュ・ビュフェ]]が青年・スポーツ相に入閣する。この時期の共産党指導部は[[新自由主義]]的改革とそれに伴うフランスの伝統的な福祉政策の転換に反対せず「ゲソ同志を困らせるな」をスローガンにして労働組合などの「[[民営化]]反対」の要求・運動を抑制した。[[2002年フランス大統領選挙]]では、書記長のロペール・ユが出馬して歴史上初めて[[トロツキスト]]政党である「[[労働者の闘争党|労働者の闘争]]」(LO)や「[[革命的共産主義者同盟 (フランス)|革命的共産主義者同盟]]」(LCR)の候補の得票を下回った。ユ指導部は、この大敗の責任を取って退陣、ビュフェを書記長に選出して新しい指導部は「新自由主義反対」を強く打ち出すようになる。しかし、ユら旧指導部は、現在のビュッフェ路線を「反対ばかりで対案がない」と批判する。また、ビュフェ指導部も、ユ時代の「民営化推進路線」そのものを自己批判しているわけではない。