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松平 忠倶まつだいら ただとも)は、遠江掛川藩の第2代藩主。後に信濃飯山藩の初代藩主

寛永11年(1634年)、遠江掛川藩の初代藩主・松平忠重の長男として生まれる。寛永16年(1639年)に父が死去したため、家督を継いで第2代藩主となる。そして直後に江戸幕府から信濃飯山藩に移封を命じられた。正保3年(1646年)12月、従五位下・遠江守に叙位・任官する。

藩政においては野田喜左衛門を登用して千曲川の治水工事を行ない、殖産興業や浪人の取締り強化、寺社政策、検地などを積極的に行なって飯山藩の基礎を固めた。万治元年(1658年)から大坂加番に任じられ、その後も要職を歴任した。元禄8年(1695年)3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した。享年63。

子の忠継は病弱だったために廃嫡し、その忠継の子である松平忠敏を後継者に指名していたが、その忠敏も早世したため、忠敏の弟・忠喬が後を継いだ。