「始皇七刻石」の版間の差分
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'''始皇七刻石'''(しこうしちこくせき)とは、[[秦]]の初代皇帝・[[始皇帝]]が権力誇示のために国内
始皇帝の側近であった[[李斯]]の筆と言われるが定かではない。秦の公式書体である[[篆書体]]で刻まれ、篆書体の数少ない書蹟として知られる。
『[[史記]]』秦始皇本紀にも詳細に記録されている碑群であるが、残存しているものは極めて少なく
== 建碑の事情 ==
▲『[[史記]]』秦始皇本紀によれば、[[始皇帝]]は[[紀元前221年]]の建国の翌年から10年間のうち4回にわたって国内巡幸を行い、この際に七刻石を建碑したという。
この時巡幸し、建碑したのは主に東方の地域であった。この地域は秦にとっては征服地であり、そこに重点的に建碑したのは被征服民に秦の絶対的権力を見せつける目的があったと考えられている。
のち[[胡亥|二世皇帝]]も同様に巡幸を行い、父の刻石に自分の顕彰文を付け加えている。
===えき山刻石===▼
[[紀元前219年]]の巡幸の際、鄒県(現在の山東省)のえき山(「えき」は「澤」のへんを「山」に変えた字)に建てたもの。▼
===泰山刻石===▼
現存する刻石の一つであるが、極めて保存状態が悪く、記録によれば[[北宋]]代の時点で既に[[始皇帝]]のことについて書かれた部分は剥げ落ち、[[二世皇帝]]の部分のみが解読可能という状態であったという。▼
拓本としては二十九字のもの、五十三字のもの、百六十五字のものなどが伝わっているが、五十三字、百六十五字を摸刻した刻石から取ったものと考える説もあり、どれが本物の拓本であるかは意見が分かれている。▼
===瑯琊台刻石===▼
[[紀元前219年]]の巡幸の際、瑯琊(ろうや、現在の山東省)に建てたもの。この時[[始皇帝]]は「瑯琊台(ろうやたい)」と呼ばれる人工の丘を作り、その下に建てたという。▼
[[清]]代に県令が原石を保護、廟を建てて保存していたが、光緒26(1900)年に猛烈な雷雨のために海中に没し行方不明となった。のち[[中華民国]]の頃になって再び発見、現在は中国歴史博物館に保存されている。十三行八十六字が残っているが、摩滅で石にひびが入って文字が涙を流したようになっている。▼
===之ふ刻石===▼
[[紀元前218年]]の巡幸の際、之ふ(ちいふ、現在の山東省、「ふ」はあみがしらに「不」)に建てたもの。▼
===東観刻石===▼
[[紀元前218年]]の巡幸の際、之ふに建てたもの。「之ふ刻石」と同時に建てられたものである。▼
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七刻石の最初のもので、その知名度はかなり高く、そのために高官や皇帝などもたびたびこの碑の拓を求めるようになった。その結果、地元の官吏や農民が採拓にたびたび狩り出されて酷使されることとなり、耐えかねた村人が徒党を組んで碑を燃やしてしまう事態となった。原石はこの際に失われ、その後見かねた県令の手によって摸刻され再建されたものの拓本が現在伝わるのみである。
▲=== 泰山刻石 ===
▲[[紀元前219年]]の巡幸の際、「霊山」として中国歴代王朝の皇帝に崇敬された泰山に建てたもの。現存する刻石の一つであるが、極めて保存状態が悪く、記録によれば[[北宋]]代の時点で既に[[始皇帝]]のことについて書かれた部分は剥げ落ち、
▲現在、原石は泰山の麓にある岱廟(泰安博物館)において厳重に保存されているが、わずかに十字が残されているにすぎない。拓本としては二十九字のもの、五十三字のもの、百六十五字のものなどが伝わっているが、五十三字、百六十五字を摸刻した刻石から取ったものと考える説もあり、どれが本物の拓本であるかは意見が分かれている。
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▲現存する刻石の一つであるが、これも保存状態が悪く[[北宋]]代の時点で[[二世皇帝]]の部分のみが残っている状態であったという。[[清]]代に県令が原石を保護、廟を建てて保存していたが、光緒26(1900)年に猛烈な雷雨のために海中に没し行方不明となった。のち[[中華民国]]の頃になって再び発見、現在は中国歴史博物館に保存されている。十三行八十六字が残っているが、摩滅で石にひびが入って文字が涙を流したようになっている。拓本は原石から採ったものと、摸刻したものから採ったものがある。
▲[[紀元前218年]]の巡幸の際、之
[[紀元前215年]]の巡幸の際、碣石(けっせき、現在の河北省)に建てたもの。原石は[[前漢|漢]]代に海に没して失われたともいわれ、現存しない。拓本がいくつか存在するが偽作とされている。
=== 会稽刻石 ===
*[[始皇帝]]▼
[[紀元前210年]]の巡幸の際、会稽(現在の浙江省)に建てたもの。七刻石の最後の刻石である。原石は記録によれば[[唐]]代までは現存した模様であるが、その後失われ残されていない。拓本は摸刻されたものから採られたもののみが残る。
*[[李斯]]▼
*[[篆書体]]▼
==
▲* [[始皇帝]]
▲* [[李斯]]
▲* [[篆書体]]
== 参考文献 ==
* 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美・吉澤義則編『書道全集』第
* 藤原楚水著『図解書道史』第
[[Category:中国の文化|しよとう]]
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