「エドゥアルト・レメーニ」の版間の差分

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'''エドゥアルト・レメーニ'''('''Eduard Remenyi''' または '''Reményi Ede''', もとの姓は Hoffmann, [[1830年]][[1月17日]] [[エゲド]] Eged - [[1898年]][[5月15日]] [[ニューヨーク]])は[[ハンガリー]]出身の[[ヴァイオリニスト]]。[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の青春時代に演奏旅行をともに行なったこと、ブラームスに同郷の[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]を引き合わせたこと、さらにはブラームスの《ハンガリー舞曲集》をめぐって盗作の疑いで訴えたことなどで、[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の音楽史に名を残した。兄のレメーニ・アンタル([http://www.mek.iif.hu/porta/szint/egyeb/lexikon/eletrajz/html/ABC12527/12876.htm])は旅行家・作家。
 
==生涯==
[[1842年]]から[[1845年]]まで[[ウィーン音楽院]]に学ぶ。同時期の学友としては[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]、[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー]]らがいる。[[1846年]]の[[ハンガリー革命]]に加わった疑いで[[オーストリア帝国]]から追放にされ、渡米して5年のあいだ放浪の楽師として過ごす。[[1853年]]に[[ヨーロッパ]]に戻り、一時期[[ワイマール]]を訪れ、[[フランツ・リスト]]の好意によって指導を受ける。[[1854年]]に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]お抱えのヴァイオリニストとなる。[[1860年]]に[[大赦]]によって[[ハンガリー]]に戻り、その後にオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ]]のお抱えヴァイオリニストになる。[[1865年]]にヨーロッパ各地で演奏旅行。[[1871年]]から[[1877年]]に[[パリ]]に過ごし、それから2年後に[[ロンドン]]に渡り、さらに[[北米]]と[[中米]]でも演奏旅行を続けた。[[1886年]]に世界一周の演奏旅行に着手、[[喜望峰]]を越えて[[アジア]]に渡り、[[インドシナ半島]]や[[中国]]、[[日本]]でも活動したと伝えられる(日本については後述)
 
[[フレデリック・ショパン|ショパン]]のワルツや[[ポロネーズ]]、マズルカのほか、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[ピアノ]]曲や[[バッハ]]の鍵盤楽曲を[[ヴァイオリン]]用に[[編曲]]し、《ヴァイオリンの新しい教程》と題した曲集の中で公表した。自作の[[ヴァイオリン協奏曲]]を残している。
 
[[ミシュコルツ]]市はレメーニ・エデ音楽賞 Reményi Ede zenei díj を設けている([[:en:Holiday of the City of Miskolc|Holiday of the City of Miskolc]] 参照)。
 
==レメーニの日本==
レメーニは[[1886年]]7月に伴奏ピアニストのイシドール・ラックストーン、ソプラノ歌手ルイーザ・マルケッティ、その[[メイド]]とともに来日。まず[[神戸]]の[[居留地]]にあった劇場で2公演を行い(日本人の観客はゼロだった)、その後[[横浜]]に向い、8月に居留地で5公演開いた一方で、[[8月10日]]には昼に[[明治天皇]]ほかの御前演奏、夜には[[鹿鳴館]]で演奏会を開いた。御前演奏には、明治天皇のほか[[昭憲皇太后]]や、[[小松宮彰仁親王]]と[[有栖川宮熾仁親王]]の御一家などが出席した。なお、この演奏会が昭憲皇太后以下の女性皇族が宮中で初めて洋装を着用した場となった。<br>
レメーニがこの来日でどのような曲を演奏したか、日本の新聞は全く伝えていない。当時の一般的な日本人の、西洋音楽に対する知識のなさのあらわれでもある。現に、当時の[[東京日日新聞]](8月12日付)ではレメーニに関して「'''中年を越えたる年輩にして頭は半禿げ眼光鋭くして一見して其技芸の達人たる容貌を備へたり'''」、「'''絶技のワイオリン'''(ヴァイオリン)'''を奏したるに序破急の調子の妙なる聴くものをして茫然たらしむに及へり'''」など、容貌とか演奏スタイルに関しては長々と書いてはいるものの、演奏曲目は一切書かれていない。曲目に関しては、横浜で発行されていた英字新聞によると、横浜の演奏会では[[ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)|クロイツェル・ソナタ]]、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]のカプリース、レメーニ編曲による小品などが演奏されたようである。<br>
また、[[8月11日]]に行われた日本での最後の演奏会では、演奏中に[[按摩]]師の笛の音が演奏会場に聞こえてくるハプニングがあり、レメーニはこれに激怒して演奏を一時中断し、音が聞こえてきた方を睨みつけていたという。
 
==参考文献==
*松本善三『提琴有情 日本のヴァイオリン音楽史』レッスンの友社、1995年、
 
== 外部リンク ==