「サルッツォ侯国」の版間の差分
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'''サルッツォ
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== 侯国の領土 ==
サルッツォは、クーネオ県とトリノ県との一部分や歴史上幾度かそして現在もフランスの支配下となっている地域も所有していた。歴史的なサルッツォの領土は[[ストゥーラ川]]と[[ポー川]]と[[アルプス山脈]]との間だけであった。
サルッツォを自治的に支配していた[[デル・ヴァスト家]]
のため[[リグーリア]]とイタリアにも領地を所有していたが、サルッツォにはこれらの領地は統合されなかった。おそらく、[[サヴォイア家]]のイタリアへの前進がなければ、有力なイタリアの領主としてサルッツォはピエモンテの他の土地を征服できたであろう。
== デル・ヴァスト家の政治 ==
リグーリアの古い貴族の系統で、[[ヴェンティミリア]]周辺に座していたデル・ヴァスト家は[[ボニファーチオ・デル・ヴァスト|ボニファーチオ]]
自らの領地の拡張を考えていた[[マンフレード2世 (サルッツォ侯)|マンフレード2世]]は、サヴォイア軍と戦っていた。サヴォイアは幾度も対立に持って行った弱い侯国に対し、その主人であるといううぬぼれあり、彼が死ぬと未亡人のアラージア・デル・モンフェッラート(Alasia del Monferrato)は年ごとの税金一式を彼らに支払わなければならなかった。
[[Image:Saluzzo-Castello della Manta.jpg|thumb|right|250px|<center>[[マンタ城]], [[サルッツォ]]にあるマンタのサルッツォの領主の古くからの所有物</center>]]
内部確執に度々苦しめられたサルッツォは[[ルドヴィーコ1世 (サルッツォ侯)|ルドヴィーコ1世]]
実際、彼が死ぬと息子たちは爵位を激しく取り合い、領地は荒れ、財産を浪費した、ようやく順位が決定した時には時既に遅し、フランスが侯国に目をつけていて[[ガブリエーレ・ディ・サルッツォ|ガブリエーレ]]侯爵を廃し、侯位を[[パリ]]の王冠に付属させる手続きが出来ていた。
サルッツォは[[リヨン
=== デル・ヴァスト家の領主一覧===
* [[1175年]] - 1175年: [[マンフレード1世 (サルッツォ侯)|マンフレード1世]] (Manfredo I)
* 1175年 - 1215年: [[マンフレード2世 (サルッツォ侯)|マンフレード2世]] (Manfredo II)
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[[category:イタリアの歴史|さるつつお]]
[[Category:イタリアに存在した国|さるつつお]]
[[de:Markgrafschaft Saluzzo]]
[[it:Marchesato di Saluzzo]]
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