「吉井藩」の版間の差分

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ちなみに最後の藩主家となった松平(鷹司)氏であるが、この松平氏は公家で有名な[[鷹司家]]の系統で、[[徳川家光]]の正室として[[鷹司信房]]の娘・孝子が輿入れのとき、孝子に従って信房の弟・[[鷹司信平|松平信平]](信清の祖父)が[[江戸]]に入ったことから始まった。<SMALL>(また、一説では信平は[[徳川忠長]]の遺児・[[松平長頼]](長七郎)の子が[[徳川頼宣]]の仲介で鷹司家に引き取られたものといわれているが、年代的にあわないため俗説の範疇を越えるものではない)。</SMALL>信平は[[承応]]3年([[1654年]])3月10日、松平姓を与えられて松平信平と名乗った。[[延宝]]2年([[1674年]])には上野と[[上総国]]両国内において7000石の知行を与えられた。その後、嫡男[[松平信政|信政]]、その子信清に引き継がれ、信清の時代に1万石の大名となったのである。小藩ながらその待遇は国主格、あるいは[[徳川御三家|御三家]]と同様に遇されていた。
 
しかし小藩さながらの悲しさから、第5代藩主・[[松平信成]]の頃から財政難が始まる。信成は[[寛政]]9年([[1797年]])に倹約令を出したが、効果は無かった。第7代藩主・[[松平信敬]]も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行なったが、やはり効果はほとんど無かった。第9代藩主・松平信発は[[安政]]6年([[1859年]])、[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]蟄居の命を伝える上使を務めた功績から、莫大な恩賞を授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革を行なっている。最後の藩主・[[吉井信謹]]は[[明治慶応]]4年([[1868年]])2月22日、[[徳川氏]]との訣別を表すためにか、松平姓を捨てて吉井姓に改めている。その後、[[戊辰戦争]]では新政府側に与して戸倉に出兵した。
 
明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]では上野国諸藩に先駆けて行ない、信謹は藩知事となる。しかし同年12月25日、信謹は藩知事を辞したため、ここに吉井藩は廃藩となった。その後、吉井の地は[[岩鼻県]]、群馬県、熊谷県を経て、群馬県に最終的には編入されたのであった。