「阿頼耶識」の版間の差分

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*([[三島由紀夫]])
 
三島由紀夫の絶筆となる[[豊饒の海]](第三巻「[[暁の寺]]」)において主人公が一旦指向傾倒した思想であるが、その後[[インド]]の[[ガンガー]]川畔の巨大な火葬の町バラーナシ([[ベナレス]])のガートでの火葬風景を見て、途方もない[[ニヒリズム]]に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に絶えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。
 
「[[暁の寺]]」には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。
 
(引用)
 
___屍体は次々と火に委ねられていた。縛めの縄は焼き切れ、赤や白の屍衣は焦げ失せて、突然、黒い腕がもたげられたり、屍体が寝返りを打つかのように、火中に身を反らせたりするのが眺められた。先に焼かれたものから、黒い灰墨の色があらわになった。ものの煮えこぼれるような音が水面に伝わった。焼けにくいのは頭蓋であった。たえず竹竿を携えた穏亡が徘徊していて、体は灰になっても頭ばかり燻る屍の、頭蓋をその竿で突き砕いた。力をこめて突き砕く黒い腕の筋肉は炎に映え、この音は寺院の壁に反響してかつかつとひびいた。
 
___ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。
 
___マニカルニカガートこそは、浄化の極点、印度風に総て公然とあからさまな、露天の焼場なのであった。しかもベナレスで神聖で清浄とされるものに共有な、嘔吐を催すような忌まわしさに充ちていた。そこがこの世の果てであることに疑いはなかった。
 
___輪廻転生も亦、日常の感覚や知性だけではつかまえられず、何かたしかな、きわめて正確で体系的でもあり直感的でもあるような、そういう超理念を以ってして、はじめて認識されるのではなかろうか。
 
三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学を一瞬にして微塵もなく破壊したのである。
 
 
 
 
[[Category:唯識|あらやしき]]