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オブレノビッチ王朝が倒れ、カラジョルジェビッチ王朝が権力を掌握した後、1903年秋に参謀総長に任命。1906年、1912年、国防相を務める。1912年の対土宣戦布告([[第一次バルカン戦争]])の際、最高司令部参謀長に任命。セルビア軍の勝利に貢献した。1913年の[[ブルガリア]]との[[第二次バルカン戦争]]も、セルビア側有利に終わらせた。
 
[[第一次世界大戦]]勃発時、プトニクは[[オーストリア]]で保養中だった。プトニクは抑留されたが、後に[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の特別命令により釈放され、[[ルーマニア]]に追放された。セルビア帰国後、最高司令部参謀長(最高司令官アレクサンドレ摂政)となり、セルビア軍を指揮した。オーストリア・ハンガリー軍の第一次セルビア侵攻(1914年8月12日~24日)時、敵軍を撃破し、ドリナとサヴァまで後退させた。第二次侵攻時、ルドニク会戦(12月2日~15日)でオーストリア・ハンガリー軍を撃破し、6万人を殺傷し、5万人を捕虜とし、軍旗3本と火砲126門を鹵獲した。
 
1915年10月~12月の戦役時、セルビアはドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍、[[ブルガリア軍]]により3方向から攻撃された。プトニクは、セルビア軍の[[アルバニア]]への退却を指揮し、その後、残余部隊をコルフ島に撤収させた。1916年初め、重病を患い、治療のため[[フランス]]に去った。