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[[Image:Amedeo I di Savoia.jpg|thumb|right|200px|Amedeo I ''Coda'']]
 
'''アメデーオ1世・ディ・サヴォイア'''・'''コーダ''' ('''Amedeo I di Savoia''' detto '''Coda''', [[1016年]] - [[1051年]])は、[[1047年]]または[[1048年]]から[[1051年]]までの[[サヴォイア]]伯、[[アオスタ]]伯、[[モリアーナ]]伯である。
 
彼の渾名コーダ(尻尾の意)は皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]により[[ヴェローナ]](または[[ローマ]])に招集された際に、護衛として後ろに付くのを許されるまで街に入るのを断ったと言う事からつけられた。
 
アディーラ(Adila (Adila/ Adalegida /Adelaide) Adelaide)と結婚し、2人の息子を授かった。ウンベルトは[[1051年]]に若くして亡くなり、アイモーネはBelleyの司教となり[[1060年]]に死んだ。
 
[[サヴォイア]]と[[モリアーナ]]における父の地位を固め、Bourget-du-Lacの執政官を創設した。
 
 
1051年の彼の死後は[[オッドーネ・ディ・サヴォイア|オッドーネ]]([[1023年]] - [[1060年]])が後を継いだ。
 
{{先代次代|サヴォイア伯|[[1047年|1047]]または[[1048年]] - [[1051年]]|[[ウンベルト1世ビアンカマーノ|ウンベルト1世]]|[[オッドーネ・ディ・サヴォイア|オッドーネ]]}}
 
[[Category:サヴォイア家|あめてお1]]
[[Category:1016年生|あめてお1]]
[[Category:1051年没|あめてお1]]
 
[[de:Amadeus I. (Savoyen)]]