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==歴史==
(皇帝それぞれの読み、生没年、在位年については後述の皇帝一覧を参照)
開祖・[[王審知]]は光州固始(現在の[[河南省]]固始県)の人。[[字]]は信通。兄・[[王潮]]と共に[[唐]]末の混乱の中で中央の混乱を避けて、福建へと移住し、この地を占領した。[[896年]]に王潮は唐より威武軍[[節度使]]に追認され、翌年に王潮が死ぬと王審知が地位を受け継いだ。
 
[[907年]]に[[朱全忠]]が唐から[[禅譲]]を受けて[[後梁]]を立てると、後梁に[[朝貢|入朝]]して閩王に封ぜられた。
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王延鈞は[[935年]]に長男の王継鵬によって殺され、王継鵬が帝位に就く。[[937年]]、王継鵬は後唐を倒した[[後晋]]に再び称臣して閩王に戻った。王昶は[[道教]]を狂信し、巫女の言葉を信じて一族を殺し始めたので、[[939年]]に将軍の[[クーデター]]によって殺され、王審知の末子の王延羲が擁立された。しかし王延羲も暴政を行い、恨みのある一族を殺して回った。[[943年]]、これに対して王延羲の兄・王延政は任地の建州で自立して皇帝となり、[[殷]]と称した。
 
翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の王継勲(おうけいくん)と王継成(おうけいせい)がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た[[南唐]]の[[李璟]]により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都[[建康 (都城)||金陵]]へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。
 
==文化==