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==経歴==
[[大分県]]立[[大分県立杵築高等学校|杵築中学]]を卒業後、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入り(66期)、第33期飛行学生を経て、戦闘機搭乗員となる。日米開戦直前、空母「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」に配属となり、[[真珠湾作戦]]に参加、第二次攻撃隊制空隊小隊長として初陣を飾り、[[P-36 (航空機)|P-36]] 1機を撃墜した。[[ミッドウェイ海戦]]では上空直掩隊として10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火により被弾してパラシュート降下を余儀なくされ、漂流4時間の後に救助され九死に一生を得た。その後空母「[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]」乗り組みとなってソロモン航空戦を戦い、築城空に転じた後、[[硫黄島]]航空戦、[[台湾沖航空戦]]、[[フィリピン]]航空戦、[[本土防空戦]]を指揮官パイロットとして戦い抜いて終戦を迎えた。最終階級は[[海軍少佐]]。生涯撃墜機数は39機、不確実を加えると約50機という。
 
戦後、[[日本航空]]に入り民間機パイロットとして活躍、[[1977年]](昭和52年)に退職するまで生涯総飛行時間一万八千三十時間を数えた。平成18年12月1日、[[肺癌]]のため89歳で死去。