「部落問題」の版間の差分

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*[[1967年]]1月と2月、小説家で精神科医の[[なだいなだ]]が『[[毎日新聞]]』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の[[劣等感]]によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。
 
*[[1969年]]、経済学者[[大内兵衛]]が、[[岩波書店]]刊行の雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』3月号に論文「[[東京大学|東大]]は滅してはならない」を発表。この論文における「[[大学]]という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表<ref>[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.12、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。
 
*[[1973年]][[7月19日]]、司会者[[玉置宏]]が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ワイドショー]]『[[3時のあなた]]』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、[[1973年]][[8月16日]]、部落解放同盟が玉置とフジテレビと[[関西テレビ放送|関西テレビ]]を相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は涙を流して謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。
 
*[[1973年]]9月、映画評論家の[[淀川長治]]が『[[産経新聞|サンケイ新聞]]』の[[インタビュー]]記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落」の[[にある銭湯]]入り、部落民はいったこもあった」、この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇという経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らの[[エリート]]意識をさらけ出すもの」「エセ・[[ヒューマニズム]]」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った<ref>部落解放研究所編『部落問題事典』p.308、解放出版社、1986年。[[成澤榮壽]]編『表現の自由と部落問題』p.14、[[部落問題研究所]]、[[1993年]]。ISBN 4829810335</ref>。この事件の後、サンケイ新聞社は[[1974年]]11月から[[1975年]]3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。淀川は、部落解放同盟大阪府連合会制作による[[狭山事件]]告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう約束した。
 
*[[1979年]]8月、[[曹洞宗]]宗務総長で[[全日本仏教会]]理事長(当時)の[[町田宗夫]]が、[[米国]][[ニュージャージー州]][[プリンストン]]における第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。