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被差別部落民の起源については、異民族起源説を主張。『前衛』[[1923年]]1月号に発表した論文「水平運動の進展」の中では、無産階級革命による部落解放を説いた。次いで『解放』[[1923年]]5月号に「吾等の水平運動」を、『階級戦』[[1923年]]7月号に「水平運動の革命的意義」を発表。
 
[[1923年]]11月、[[ボル派]]による[[全国水平社青年同盟]]の創立に理論指導者として立ち会う。[[1924年]]5月、『特殊部落一千年史』を更正閣から刊行。発禁処分を受けたが、5ヵ月後に『特殊部落史』と改題して再刊。部数は8000部を超え、当時の[[ベストセラー]]となる。[[1925年]]、[[全国水平社無産者同盟]]の結成を指導
 
[[1926年]]、[[日本共産党]]の指令で[[ソ連]]に密航し、[[レーニン大学]]に入学、[[ソヴィエト共産党]]に入党。[[コミンテルン]]本部にて実質的な[[日本]]代表の一人として活動。[[1928年]]に[[日本共産党]]再建の任務を帯びて帰国し、地下活動に入る。
 
[[1929年]]4月、[[四・一六事件]]の直後に[[特高警察]]の検挙を受ける。[[1931年]]、希望閣から『日本プロレタリアートの問題』を刊行。獄中闘争を経て、[[1934年]]、[[佐野学]]や[[鍋山貞親]]に続き[[転向]]を表明。
 
[[治安維持法]]違反により[[懲役]]15年の[[判決]]を受けて服役したが、[[1935年]]6月、[[肺結核]]の悪化により刑の[[執行停止]]を受けて出獄。同年11月に病死した。遺骨は[[小石川区|小石川]]称名寺の共同納骨堂に納められている。