「エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分
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[[画像:Ernesto augusto 3 de brunswick.jpg|thumb|エルンスト・アウグスト]]
[[1887年]][[11月17日]]、元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト(2世)とその妃であった[[デンマーク]]王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の王女[[ティーラ・フォン・デーネマルク|ティーラ]]の間に第六子(末子)として[[ウィーン]]近くの[[ペンツィング]]で生まれた。父エルンスト・アウグスト(2世)は[[イギリス]]王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の曾孫にあたり、イギリス王子の称号と[[イギリス貴族]][[カンバーランド公|カンバーランド=テヴィオットデイル公]]の爵位を持っていた。二人の兄がともに先立ったため、エルンスト・アウグストはハノーファー王家家長とカンバーランド公位の[[法定推定相続人]]となった。
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* 混乱を避けるため便宜上、以後は本記事の人物(3世)を「エルンスト・アウグスト」と、同名の父(2世)を「カンバーランド公」と表記する。
[[1884年]]、[[ハノーファー家]](ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の遠戚にあたるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家の[[ブラウンシュヴァイク公国|ブラウンシュヴァイク]]公[[ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク公)|ヴィルヘルム]]が死去し、ブラウンシュヴァイク公が空位となった。カンバーランド公は彼の最近親の男系男子として公位継承権を主張したが、[[帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク]]は[[連邦参議院]]に継承権者不在を決議させて[[プロイセン王国|プロイセン]]王子[[アルブレヒト・フォン・プロイセン (1837-1906)|アルブレヒト]]をブラウンシュヴァイク公国の[[摂政]]とした。これは[[1866年]]の[[普墺戦争]]において、ハノーファーが[[オーストリア帝国]]側につき、敗戦後プロイセンに併合されたもののカンバーランド公やその父[[ゲオルク5世 (ハノーファー王)|ゲオルク5世]]がハノーファー王位を主張し続けていたためだった。[[1906年]]にアルブレヒトが死去すると、カンバーランド公は自身の公位継承権を放棄して
[[1913年]][[5月24日]]、エルンスト・アウグストとヴィクトリア・ルイーゼは[[マリーエンブルク城]]で結婚式を挙げた。これによってハノーファー家と[[ホーエンツォレルン家]]の間の対立関係に終止符が打たれた。二人の結婚式は[[第一次世界大戦]]前に[[ヨーロッパ]]諸国の君主――イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]や[[デンマーク]]王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の子孫が多かった――が一堂に会する最後の機会となった。具体的には[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]と皇后[[アウグステ・ヴィクトリア]]、カンバーランド公と妻のデンマーク王女[[ティーラ・フォン・デーネマルク|ティーラ]]、イギリス王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と王妃[[メアリー・オブ・テック|メアリ]]、[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[ニコライ2世]]と皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]らが参列した。また先立って2月に行なわれた婚約発表においてエルンスト・アウグストは皇帝に対して忠誠の宣誓を行い、騎兵大尉および第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"(<span lang="de" xml:lang="de">[[:de:Husaren-Regiment von Zieten (Brandenburgisches) Nr. 3|Brandenburgisches Husarenregiment Nr. 3 "von Zieten"]]</span>
[[1913年]][[10月27日]]、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日[[連邦参議院]]はエルンスト・アウグストにブランシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年[[11月1日]]に[[ブラウンシュヴァイク城]]で即位し、また大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。
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