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'''アエリア・エウドキア''' (Aelia Eudocia,[[401年]]-[[460年]])は、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[テオドシウス2世]]の皇后。
 
[[アテネ]]の[[哲学|哲学者]]レオンティウスの子アテナイス(Athenais)として生まれ、古典文学と[[修辞技法]]の素養を身につけた。言い伝えによれば、父の死後に兄弟から相続財産がわずかしか分配されず、それを訴えに[[コンスタンティノープル]]へ出てきたという。彼女の見事な弁舌が、テオドシウス帝の姉プルケリアの関心をひき、彼女の女官に取り立てられた。のち、テオドシウスの妻に推薦された。
 
洗礼を受けて[[キリスト教|キリスト教徒]]となり、彼女は名前をアテナイスからアエリア・リキニア・エウドキア(Aelia Licinia Eudocia)と変えた。421年6月7日にテオドシウスと結婚し、のち長女[[リキニア・エウドクシア]]を出産すると『アウグスタ』とされた。エウドキアは、兄弟たちを[[トラキア]]や[[イリュリオム]]の[[コンスル]]にとりたてたり、知事とした。数年をえて、エウドキアとテオドシウスの夫婦仲は冷えたものとなっていった。
 
438年から439年にかけ、エウドキアは[[エルサレム]]へ[[巡礼]]へ出かけた。皇后としての豪華な装備であったといわれる。高名な修行者と交流し、エルサレムに詣でた彼女が帰国すると、皇姉プルケリアの嫉妬の的となった。一生を神に捧げるとして独身を宣言し、[[聖母マリア]]と同じ神性を帯びようとしたプルケリアに対し、実際に聖地へ行ったエウドキアも遜色ない皇后となっていたためだった。