「足利藤氏」の版間の差分

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藤氏は足利晴氏の長男であり、13代将軍[[足利義藤]](後の義輝)の一字を名乗っている事からでも分かるように次代の古河公方として認められた存在であった。祖父・簗田高助は家中の親北条派の中心として、晴氏の後添えの正室に[[北条氏綱]]の娘・[[芳春院 (曖昧さ回避)|芳春院]]を迎え入れるように尽力した実力者であった。
 
ところが、次第に晴氏と北条氏の関係が悪化していき、ついには[[河越夜戦]]で[[北条氏康]]と戦って敗北してしまう。その後、氏康の圧迫で晴氏は隠退させられて、芳春院が生んだ足利義氏が次の古河公方に立てられた。[[天文弘治 (元号日本)|天文弘治]]263年([[1557年]])、藤氏は挙兵して[[古河城|古河御所]]奪還を試みるが失敗し、晴氏は幽閉され、藤氏も追放されてしまう。それでも、藤氏は[[簗田晴助]](高助の子)や[[安房国|安房]]の[[里見義堯]]を頼って再起の機会を窺った。晴助らは[[越後]]に滞在中の関東管領[[上杉憲政]]と彼を助けていた[[長尾景虎]](後の上杉謙信)に藤氏救援を依頼した。
 
永禄4年([[1561年]])、憲政と前[[関白]][[近衛前久]]を擁して10万の大軍で関東に出兵した長尾景虎は[[小田原城]]の攻略には失敗したものの、途中古河御所を占領して義氏を小田原に放逐するなど、関東の大半を制した。憲政から上杉の家名と関東管領の地位を譲られた「上杉輝虎(謙信)」(便宜上、以後は謙信とする)は、憲政・前久と相談して、義氏の古河公方就任を否認して関東管領の名において藤氏を晴氏(前年死去)の後継として古河公方とすることを決定した。これを[[佐竹氏]]・[[里見氏]]ら反北条氏の関東諸将も受け入れ、ここに''古河公方が二人存在する''という事態が生じたのである。