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'''逢坂関'''(おうさかのせき)は、[[山城国]]と、[[近江国]]の国境となっていた[[関所]]。逢坂は、相坂・合坂などとも書く。[[646年]]に初めて置かれた後、[[795年]]に一旦廃絶されたが、[[857年]]に再び設置された
逢坂は、相坂・合坂などとも書く。
[[646年]]に置かれ、[[795年]]に廃絶され、[[857年]]に再び設置されたと言われている。
 
[[東海道]]・[[東山道]](のちの[[中山道]])の二つが、逢坂の関を越える。そのため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、[[平安時代]]中期以後(810年?)には、「三関」の一つとなったことからもみてとれる。残り二関は、[[美濃国|美濃]]の[[不破]]、[[伊勢国|伊勢]]の[[鈴鹿]]である。ちなみに、平安前期までは、逢坂関ではなく、[[越前国|越前]]の[[愛発]]が、三関の一つであった。
[[東海道]]・[[東山道]](のちの[[中山道]])の二つが、逢坂の関を越える。
そのため、交通の要となる重要な関であった。
その重要性は、[[平安時代]]中期以後(810年?)には、「三関」の一つとなったことからもみてとれる。残り二関は、[[美濃国|美濃]]の不破の関、[[伊勢国|伊勢]]の鈴鹿の関である。ちなみに、平安前期までは、逢坂の関ではなく、[[越前国|越前]]の愛発の関が、三関の一つであった。
 
[[滋賀県]][[大津市]]大谷町の[[国道1号]]線沿いに、逢坂山関址がある。ただし、この石碑は、昭和に入ってから建てられたもの。逢坂関が実際にあった場所は、少し違うようで、いくつかの説がある。
 
[[百人一首]]でも二つの歌で詠まれている。
:*これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 [[蝉丸]](第十番)
:*夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ [[清少納言]](第六十二番)
 
[[Category:関所|おうさかのせき]]