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てら1971 (会話 | 投稿記録)
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『[[要略]]』によると、[[483年]]([[太和]]7年)、生母の林氏は、外戚の専横を未然に防ぐ為の北魏の慣例により、父帝から死を賜ったという。[[493年]](太和7年)に、生母を失った元恂は12歳で[[皇太子]]に指定された。<br/>
父帝が[[南斉]]へ自ら遠征する時に、彼が[[監国]]として都の[[洛陽]]の留守を使命された。<br/>
だが、彼は湿度が高い[[河南省|河南]]の気候に辟易しが合わず、その蒸し暑さに憂鬱となったという。また、父の漢化政策に反対の気概が強烈のする思想の持ち主だったという。彼は[[武川県|武川鎮]]の冷涼な気候が恋しくなり、いれは北方の故地に戻るような構想を練っていたという。<br/>
さらに元恂は父と違って、[[鮮卑]]風の胡服の愛用を頑固に続けていた。だが、[[外戚]]の[[高道悦]]によって激しく直言されて、胡服の着用を止めるようにさせられた。また、高道悦はこのことを孝文帝に上奏し、元恂は父帝の逆鱗に触れて謹慎させられたという。<br/>
このために皇太子元恂は高道悦を激しく怨みかつ憎悪した。[[496年]](太和20年)、側近と謀って[[大同市|平城]]で高道悦を召し出して、彼を誅殺した。皇太子の勝手な行動に激怒した父帝は、皇太子元恂に対して杖打ちの刑を喰らわしたという。さらに父を怨んだ皇太子元恂は、事ここに及んでついに謀反を起こしたのであるこうなると皇太子の謀反に怒濤の如く大激怒した孝文帝は、ついに討伐隊を派遣した。皇太子も負けずに元恂は漢化反対派と共に平城で籠城したものの、やがて平城は陥攻めとされ皇太子側近その取り巻きは共に捕虜となった。こうして、皇太子元恂は洛陽に連行された。やが父帝から廃嫡され、庶人に落とされ幽閉された。間もなく、高道悦と親交があった御史[[中尉]]・[[李彪]]の讒言で、元恂は父からの勅命により李彪の手によって毒殺されたという。享年16。<br/>
後に元恂は、『'''戻'''』の[[諡号]]を贈られたという。