「アンスバッハ侯領」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →成立と経緯: 語順の変更等 |
|||
4行目:
== 歴史 ==
=== 成立と経緯 ===
アンスバッハ侯領は、[[ニュルンベルク]][[城伯]]領の "untergebirgisch"(山の麓)部分にあたる。"obergebirgisch"(山の上)部分と併せてホーエンツォレルン家のフランケン地方における本拠地である城伯領を形成する。[[1415年]]あるいは[[1417年]]にニュルンベルク城伯[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]は、それまで歴代有していた所領に加えて、世襲の辺境伯領を手に入れ
アンスバッハ侯領は、クルムバッハ侯領(1604年以降はバイロイト侯領)とたびたび[[同君連合]]の形で統治された(1495年-1515年、1557年-1603年、1769年-1791年)が、[[神聖ローマ帝国|帝国]]の終焉まで国法上は独立した領邦であった。[[1791年]]にバイロイト侯領とともに[[プロイセン王国]]に編入されると、アンスバッハ=バイロイトとして、[[カール・アウグスト・フォン・ハーデルベルク]]に包括管理されることとなった。フランス革命戦争でのプロイセンの敗北後はフランスに割譲され、とりあえずは軍政管理下に置かれたが、[[1810年]]に最終的に[[バイエルン王国]]領となった。
|