「ロレーヌ地域圏」の版間の差分

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==歴史==
[[古代ローマ|ローマ人]]による征服以来、この地は[[トレーヴ]]、[[メス]]が都市として発達した。ロレーヌの名称は、[[ヴェルダン条約]](843年)によってこの地方が[[ロタリンギア]]に属したことに由来する。ロタリンギア分裂後、帰属をめぐって抗争が起き、10世紀に高(上)ロレーヌと低(下)ロレーヌの南北2公国に二分され、後者がやがて[[ブラバント公]]に帰属したため、前者が11世紀以来ロレーヌという名称を指すようになった。13世紀前半まで[[神聖ローマ帝国]]の勢力下にあったが、13世紀後半より[[フランス王国|フランス王]]の勢力が浸透し、[[三十年戦争]]に際しては[[リシュリュー]]が事実上占領した。17世紀末までフランスの支配下にあり、ロレーヌ公位は名目上にすぎなかったが、[[ライスワイク条約]](1697年)で再び神聖ローマ帝国へ戻った。[[1736年]]までは[[ロートリンゲン公国]]として[[神聖ローマ帝国]]の[[領邦国家]]となっていた。[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|ロートリンゲン公フランツ・シュテファン]]は、[[マリア・テレジア]]と1723年に15歳で婚約したが、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]は結婚を認める条件として、元[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[スタニスワフ・レシチニスキ]]にロートリンゲン公国を譲渡することを要求していた(代償としてフランツ・シュテファンには[[トスカーナ大公国]]が与えられる)。この条件は了承され、1736年2月に婚姻がなされた。ルイ15世はスタニスワフにロレーヌを余生の場として提供した。1766年、彼の死後、公国は最終的にフランスに併合され、1776年[[ナンシー]]に高等法院が設置された。1870~1871年の[[普仏戦争]]の結果、ロレーヌの一部がドイツに併合されたが、1919年の[[ヴェルサイユ条約]]の結果、フランスに帰属した。
 
現在でも特に[[モゼル県]]などには[[ドイツ人|ドイツ系]]住民が多く暮らす。地域圏の広さは[[東京都]]の約10倍([[九州]]の6割程度)、人口は[[宮城県]]と同じぐらいである。