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中世
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[[堀|水堀]]をめぐらせた場合に'''環濠'''と書き、[[堀|空堀]]をめぐらせた場合に'''環壕'''と書いて区別することがある。
 
「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江流域と内蒙古であると考えられており、[[日本列島]]では、[[弥生時代]]から[[古代中世]]にかけて各地でられ
 
== 日本 ==
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環濠集落は[[朝鮮半島]]南部でも見られ、北九州では[[縄文時代]]晩期(前4世紀)の環濠集落がある。縄文人のムラは環濠を形成しない傾向にあるので、環濠集落は[[稲作]]文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。
 
=== ムラを守る環濠集落古代 ===
弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、[[濃尾平野]]以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したのか。そのころ、福岡市の[[板付遺跡]]と大阪府高槻市の[[安満遺跡|安満(あま)遺跡]]、京都府中郡峰山町[[扇谷遺跡]]などに環濠集落が現れる。板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。また、北部九州や近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。大阪府の安満遺跡や池上遺跡、奈良県の[[唐古・鍵遺跡]]などが上げられる。
 
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発掘調査によって、土塁の上には[[ピット (考古学)|ピット]](柱穴)が検出されることがあり、柵列があったと思われる。
 
 
=== 遺跡 ===
=== 中世 ===
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、農村では集落を守るために周囲に堀(環濠)を巡らして襲撃に備えるところが現れ、中世の環濠集落として現在も各地に点在している。有力な[[仏教]][[寺院]]が中心に存在し、規模が大きくなる場合は「[[寺内町]]」となる。
 
 
=== 古代遺跡 ===
現在でも当時以来の姿を残した環濠集落が、わずかながら存在する。[[吉野ヶ里遺跡]]の遺構からは、大規模な環濠集落の全貌が明らかにされた。また、最近では伊邪那美神陵伝説地の一つである安来市伯太町からも経塚鼻遺跡が発掘され話題を呼んでいる。
 
;====早期====
*[[江辻遺跡|江辻(えつじ)遺跡]](福岡県)
*[[那珂遺跡|那珂(なか)遺跡]](福岡県)正円に近い二重の環濠、外径150メートル。
 
;====前期====
北部九州から瀬戸内海沿岸地域、大阪湾沿岸へと東進波及する。規模は、径70~150メートル、卵形、小規模で大環濠に肥大しない。
*[[板付遺跡]](福岡市)
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*[[扇谷遺跡]](京都府京丹後市、旧峰山町、山陰地方)
 
;====中期以降====
*[[原の辻遺跡]](長崎県壱岐島南東部)
*[[吉野ヶ里遺跡]](佐賀県[[吉野ヶ里町]])
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*[[大塚・歳勝土遺跡]](神奈川県[[横浜市]])
 
;==現存するもの集落==
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*[[稗田]]環濠集落(奈良県大和郡山市)
*[[竹之内]]環濠集落(奈良県[[天理市]])
*[[南郷]]環濠集落(奈良県[[広陵町]])
*[[高安 (斑鳩町)|高安]]環濠集落(奈良県[[斑鳩町]])
など。
 
 
==関連項目==
*[[城]]
*[[弥生時代の主な出来事]]
*[[寺内町]]
 
 
[[category:考古学|かんこうしゆうらく]]
 
[[category:考古学弥生時代|かんうしうらく]]
[[category:弥生戦国時代 (日本)|かんうしうらく]]
[[Category:土木史|かんうしうらく]]
[[Category:社会史|かんうしうらく]]