「フランスの映画」の版間の差分

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===第二次世界大戦後:1940年代から1970年代まで===
[[マルセル・カルネ]]の監督した『[[天井桟敷の人々]]』は第二次世界大戦下の戦時中に撮影され、1946年に公開された。この3時間に渡る映画は、当時フランスが[[ナチ]]の支配下にあったため、製作が非常に難航した。1828年のパリを舞台にしたこの作品は、1990年代、600名の映画批評家や映画製作者によって「これまでに作られた最も優れたフランス映画」に選ばれた。
 
また、1946年にはフランス政府が[[カンヌ映画祭]]を開催しはじめた。
 
1951年、アンドレ・バザンによって映画批評誌[[カイエ・デュ・シネマ]]が発行され、多くの若い批評家や愛好家たちグループらの議論の場となり、近代の映画理論が形作られていた。更に、批評の執筆者であった [[ジャック・リベット]]、[[エリック・ロメール]]、[[ジャン=リュック・ゴダール]]、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[クロード・シャブロル]]などは、映画の助監督の経験もないまま自分達で個人的に映画製作を始め話題になった。その動きは後にジャーナリズムにより[[ヌーヴェル・ヴァーグ]]となっていっ名付けられた。ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品としては[[ジャフラ=ポール・ベルモンド]]と[[ジーン・セバーグ]]主演ゴダールの『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』(1960)、トリプロデフォの『[[大人は判ってくれない]]』(1959)がある。1959年から1979年まで、トリュフォは[[ジャン=ピエール・レオ]]が演じアントワーヌ・ドワネルのシリーズを監督。アントワーヌ1968年、彼ら『夜霧の恋人たち』でクリスティーナ ( [[アルフレッド・ヒッチコック]]の『[[トパーズ (映画)|トパーズ]]』が制作費の安い割出演した[[クロード・ジャド]]) と恋話題落ち、1970年の『家庭』で彼女と結婚、そして1978年の『逃げ去恋』で離婚し事が気に入った。
 
当時の野心的な映画の潮流は大きく分けて、アラン・レネのような実験的映画作家出身のグループと、雑誌カイエ・デュ・シネマの若手批評家らの自主制作グループがあった。同じころ、映画業界から助監督出身の若手監督[[ロジェ・ヴァディム]]、[[ルイ・マル]]などの商業映画のグループが斬新な感覚の作品で興行的に成功する。彼らはそれぞれ作風や立場も明らかに異なっていたが、ジャーナリズムは彼ら全てをひとまとめにし「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼んだ。
1960年代の注目すべき作品には[[ジャック・ベッケル]]の『穴』(1960)、[[ルネ・クレマン]]の『[[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]]』(1960)、[[ヴェネチア映画祭]]で金獅子賞を受賞した[[アラン・レネ]]の『[[去年マリエンバートで]]』(1961)、[[ジャック・ドゥミ]]の『[[シェルブールの雨傘]]』(1963)、[[ロベール・アンリコ]]の『[[冒険者たち]]』(1967)などがある。
 
ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品として[[ジャン=ポール・ベルモンド]]と[[ジーン・セバーグ]]ら主演のゴダールの『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』(1960)、トリュフォーの『[[大人は判ってくれない]]』(1959)、シャブロルの『いとこ同士』(1959)がある。
 
1960年代の注目すべき作品には[[ジャック・ベッケル]]の『穴』(1960)、[[ルネ・クレマン]]の『[[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]]』(1960)、[[ヴェネチア映画祭]]で金獅子賞を受賞した[[アラン・レネ]]の『[[去年マリエンバートで]]』(1961)、[[ジャック・ドゥミ]]の『[[シェルブールの雨傘]]』(1963)、[[ロベール・アンリコ]]の『[[冒険者たち]]』(1967)などがある。
(1967)などがある。
 
フランスにおける若い映画作家の台頭は、しかしフランスだけの現象ではなかった。ほとんど同時期に世界中にその影響を波及させ、若い世代の映画作家たちの活動が各国で次々に起こった。結果、1960年代は世界的に映画の変革期となった。
 
===1980年代===