「長義和」の版間の差分

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年齢制限にひっかかるからといって、日本アマチュア界の第一人者をどうして競輪界は受け入れてやらないのかという声も一部にはあったが、当時の競輪界は半ば聞く耳を持たずの状態で、長の一件があった以降も競輪学校の受験資格条件は変えられることがなかった。ところが、[[清水宏保]]が後に長野オリンピック後に競輪界入りを希望しながらも受験さえできなかったことが分かって漸く競輪界は受験資格の一部変更に踏み切り、また93期以降より、競輪学校の受験資格に年齢の上限制限はなくなった。
 
長は現役引退後、島野工業の一社員として当時の社長であった[[島野尚三]]の命を受け、ブレーキ部分にシフトレバーを組み込む(デュアルコントロールレバー)開発に携わるなどして、「世界のシマノ」ブランドの形成の一翼を担った。
 
現在は[[和歌山県]][[田辺市]]で自営。