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Shimoxx (会話 | 投稿記録)
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こうして成立した年貢は、その後の中世・近世を通じて、支配層の主要な財源として位置づけられ、被支配層にとっては年貢を負担する義務が課され続けたのである。
 
[[鎌倉時代]]になると、商品経済が発展していき、貨幣流通が増加し、中には[[銭|銭貨]]で年貢を納入する代銭納が行われるケースも出てきた。ただし、そうしたケースは非常にまれで、物納された年貢を[[荘官]]や[[地頭]]が換金することの方が多かった。[[室町時代]]に入ると、貨幣経済が一層進展し、年貢の'''銭納'''または[[代銭納]](銭貨による年貢納入)が畿内を中心に広く普及するようになった。
 
[[安土桃山時代]]に実施された[[太閤検地]]により、一つの土地に対する重層的な支配・権利関係がほぼ全て解消された。一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量である[[石高]]で計られることとなった。年貢については、石高を村落全体で集計した村高(むらだか)に応じた額が、村の年貢量とされ、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う'''[[村請]]'''(むらうけ)の形態が採用された。[[江戸時代]]になっても、太閤検地による村落支配体制はほぼそのまま継承され、村請制がとられた。