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[[桓温]]の庶子として生まれ、その才能を愛されて後継とされた。桓温の死後は叔父の桓沖の後見を受けた。若い頃から博学で知られ、23歳の時、太子洗馬となるが、父の桓温が東晋に簒奪をもくろんだ人物だったことから罷免され、しばらくは無官の時期を過ごす。その後、義興(現在の[[江蘇省]][[宜興]])[[太守]]となるが「父は九州の伯と為り、 兒は五湖の長と為る(父・桓温は(東晋)全土の覇者となったのに、息子の自分はただの五湖([[太湖]])の長程度か)」と嘆息して辞任した。
 
当時の東晋は、安帝を擁立した[[会稽]]王・[[司馬道子]]とその息子[[司馬元顕|元顕]]が政治を壟断し、朝野からの非難が高まっていた。[[398年]]、北府軍団の長として[[鎮江|京]]に鎮していた[[王恭]]が司馬道子打倒の兵を挙げると、当時[[広州]][[刺史]]であった桓玄は[[荊州]][[刺史]]の殷仲堪らとともにこれに呼応した。挙兵自体は王恭の配下の武将で、実際に北府軍団を指揮していた[[劉牢之]]の裏切りにより、王恭が敗死したことから失敗に終わる。しかし桓玄自身はこれを利用して[[江州]][[刺史]]となるなど、自勢力を拡大に成功、翌[[399年]]には、殷仲堪と[[雍州]]刺史の楊佺期を殺し、荊州・雍州を制圧、父親である桓温が支配していた西府軍団を掌握し、長江中流域を制覇した。なおこの頃一時期ではあるが、田園詩人として有名な[[陶淵明]]が彼の幕僚を勤めている。
 
同年、司馬道子らの圧政に対して、[[五斗米道]]系の道士・[[孫恩 (東晋)|孫恩]]に率いられた民衆の反乱が起きる(「孫恩の乱」)。反乱自体は劉牢之が率いる北府軍団の活躍により、[[402年]]に鎮圧されたが、この混乱を好機とみた桓玄は、軍団を率いて長江を下り首都建康に迫った。一方の司馬道子親子は、劉牢之に勅書を出し、桓玄の討伐を命じたが、劉牢之は桓玄に寝返り、建康に入った桓玄は司馬道子親子らを殺害、総百揆・[[侍中]]・都督中外諸軍事・[[丞相]]・録尚書事・[[揚州]][[刺史|牧]]などの称号を手に入れた。この時、桓玄は今まで併用されていた[[竹簡]]や[[布]]の[[公文書]]を廃して全て[[紙]]製の公文書に統一したといわれている。さらに桓玄は劉牢之から北府軍団の実権を奪い、これに怒った劉牢之は桓玄を討とうとしたが、度重なる寝返りを行ったことから部下に見放され、逃亡した後自殺した。こうして東晋の実権を掌握した桓玄は、[[403年]]12月、安帝より帝位の禅譲を受けるかたちで皇帝に即位、国号を楚とし、 [[元号]]を[[永始]]と定めた。