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'''阿頼耶識'''(あらやしき、(skt.) ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、[[大乗仏教]]の用語。
 
[[サンスクリット]] ālaya आलयの音写と、vijñāna विज्ञानの意訳「識」との合成語。[[旧訳]]では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)と訳す。
 
[[唯識]]思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。[[三科|眼識]]・[[三科|耳識]]・[[三科|鼻識]]・[[三科|舌識]]・[[三科|身識]]・[[三科|意識]]・[[末那識]]・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālayaの語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる[[種子]]を内蔵しているから「蔵識」と訳される。また、この点から「一切種子識」とも称する。[[法相宗]]にては心は阿頼耶識までの八識とする。[[天台宗]]では1つ加えて九識、[[真言宗]]ではさらに1つ加えて十識とする。
 
== はたらき ==
ある人の阿頼耶識は、蔵している[[種子 (仏教)|種子]]から対象世界の諸現象(現行(げんぎょう))を生じ、またそうして生じた諸現象はまたその人の阿頼耶識に印象([[薫習|熏習]](くんじゅう)))}を与えて種子を形成し、[[刹那]]に生滅しつつ持続(相続)する。
 
この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。過去の業の果報(異熟(いじゅく)))}として生じた点からは'''異熟識'''と呼ばれ、他の諸識の生ずる基である点からは'''根本識'''と呼ばれ、身心の機官を維持する点からは'''阿陀那識'''(ālaya(ālaya-vijñāna、執持識)と呼ばれる。
ある人の阿頼耶識は、蔵している[[種子 (仏教)|種子]]から対象世界の諸現象(現行(げんぎょう)法)を生じ、またそうして生じた諸現象はまたその人の阿頼耶識に印象([[薫習|熏習]](くんじゅう))を与えて種子を形成し、[[刹那]]に生滅しつつ持続(相続)する。
 
この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。過去の業の果報(異熟(いじゅく))として生じた点からは'''異熟識'''と呼ばれ、他の諸識の生ずる基である点からは'''根本識'''と呼ばれ、身心の機官を維持する点からは'''阿陀那識'''(ālaya-vijñāna、執持識)と呼ばれる。
 
== 法相宗の説 ==
 
唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。
: 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 ''唯識述記 2末''
 
== 三種の境 ==
# 種子(しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
# 五根(ごこん) 眼耳鼻舌身意の五根。
# 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。
阿頼耶識は、常にこの3種を所縁の境とする。
 
== 心 ==
心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するするので、心という。
 
: あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 [[唯識論]]3
心に積集、集起の二つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するするので、心という。
:ある 梵で質多とう。これ心と名づくなり種々即ち積集法によ義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子を薫習し、積集す生ず所なるが故に。この識を説いてもって心と為す。 ''[[唯識述記]]3末''
:梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。 ''[[唯識述記]]3末''
 
== 阿頼耶識と文学 ==
* ([[三島由紀夫]])
三島由紀夫の絶筆となる[[豊饒の海]](第三巻「[[暁の寺]]」)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後[[インド]]の[[ガンガー]]川畔の巨大な火葬の町バラーレス([[ワーラーレスシー]])の[[ガート]]での火葬風景を見て、途方もない[[ニヒリズム]]に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に絶えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。
 
[[暁の寺]]」には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。
*([[三島由紀夫]])
 
三島由紀夫の絶筆となる[[豊饒の海]](第三巻「[[暁の寺]]」)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後[[インド]]の[[ガンガー]]川畔の巨大な火葬の町バラーナシ([[ベナレス]])のガートでの火葬風景を見て、途方もない[[ニヒリズム]]に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に絶えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。
 
「[[暁の寺]]」には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。
 
三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学を一瞬にして微塵もなく破壊したのである。
 
 
 
 
[[Category:唯識|あらやしき]]