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Jknudes (会話 | 投稿記録)
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明治21年(1888)、京都で木綿問屋を営む商人の家に生まれる。当時の商人の息子の常として商業学校(京都市立商業学校)に入学するが、反対する親を説得し、同校を中退して絵の道に進む。[[明治36年]](1903)聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所し、[[浅井忠]]らに師事して絵を学び始める。同時期、[[梅原龍三郎]]もここで学んでいた。
 
[[明治40年]](1907)、先輩画家の[[津田青楓]]が渡欧すると聞いた安井は、津田とともに渡欧することを決意した。安井は、渡欧に際し、それ以前の作を焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存していない。[[フランス]]ではアカデミー・ジュリアンに学んだ。また、7年ほどのフランス滞在の間に[[イギリス]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]などへも旅行している。[[大正3年]](1914)、[[第一次世界大戦]]が勃発し[[ドイツ]]がフランスに宣戦布告したことに加え、安井自身の健康も悪化していたため、日本へ帰国した。翌[[大正4年]](1915)には第2回[[二科会展]]に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。その後10年ほどの間は安井の画業の低迷期で、健康が回復しなかったことに加え、フランスと日本の風土の違いにも苦しみ、独自の画風を模索しつつある時期であった。[http://picasaweb.google.com/jknudes/YasuiSotaroJapanese18881955]
 
[[昭和5年]](1930)の『婦人像』あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、梅原龍三郎とともに[[第二次世界大戦]]前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されている。[[昭和10年]](1935)には帝国美術院会員となる。もともと文展に対抗して組織され、在野の立場を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れざるをえなかった。翌[[昭和11年]](1936)、[[有島生馬]]、[[山下新太郎 (洋画家)|山下新太郎]]らと[[一水会]]を結成。安井は生涯、同会の委員を務めた。[[昭和19年]](1944)には東京美術学校教授となり、[[昭和27年]](1952)には[[文化勲章]]を受章している。