「タイロナ」の版間の差分

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[[画像:Precolombiaanse culturen.png|thumb|350px|right|先コロンブス期におけるコロンビアの古代文化分布図]]
'''タイロナ文化'''(''' Tayronas''')は、[[コロンビア]]北部、Guajira半島の基部にあたる海岸を後背にした孤島のような山塊に住んだ人々が築いた南米先住民の文化である。タイロナ文化の起源については不明な部分が多いが、[[マグダレナ川]]下流のZambrano発展期の文化にその起源を考えるのがもっとも適切に思われる。マグダレナ川下流の[[蔵骨器]]は、タイロナのものとよく似ており、低地マグダレナ(マグダレナ川下流)文化とタイロナの間の移行期にあたるものは、La Meza(ラ・メサ)という文化として知られていて、シエラ・ネバダ<ref>シェラ・ネバダ(Sierra Nevada 直訳;雪の降ったのこぎりのように連なる山々→(雪で)白い山脈)という名前の山脈は中南米各地にみられる。これは、コロンビア北部にある小規模な山脈を指し、[[メキシコ]]のシェラ・ネバダ山脈と同名での小規模な山脈である。</ref>の南麓に遺跡が点在している。
タイロナの国家が衰退し始めたのは、[[1528年]]のPodrigo de Bastidosの到着が契機であった。そして[[1550年]]に80%の人々がいなくなって、のこり20%の人々は、より標高の高い山地へ逃れていった。混血していく人々もいた。山地に残った人々は、コギ<ref>Kogi,Cogui,Koguiなどと表記される。</ref>、イカ、サンカという部族として生き残っている。
==タイロナの「町」と耕地の様子==
考古遺跡として残ったPueblitoの遺跡は、タイロナの「重要な街」である。Pueblitoは、3000軒ほどの家々が軒を連ね、そのほかには、宮殿や神殿として建てられたすばらしい建築物があった。「街」を通る大通りは、平石で舗装され、すべての集落が石敷きの道路で結ばれていた。「街」の中を流れる小川には、平石で造られた橋がかけられた。[[考古学]]的な調査ではひとつづつの家の丸い輪郭が土台のみの形で発見される。平石が円形に並べられ側面には造り出しのように並べられ、平石の端が平石に接するように順番に並べられる。それらの円形ないし環状の家には対称的な位置に出入口が設けられている。出入口は、平石を並べてわかるようになっている。調理用の[[土器]]や斧や石のすり皿、石棒などの道具は家屋の床面から発見される。
また、しばしばそれらの家は、低い基壇の上に基礎をもって建てられているか、丘陵のわきをテラス状にして建てられている。直径20mほどの家もある。このような家屋の内部には火を使用した痕跡が見られる。壁と屋根は木を用いてるか茅葺であったと思われる。壁は粘土と小石を混ぜ込んでつくられ、表面には水で[[石灰]]を溶かして塗っていた。神殿や特別な建物は、平石の基壇の上に木造で建てられていたのは一般の家屋と同じであったが、通常より高い基壇の上に建てられ、石造りの階段がつけられ、一般の家屋より大きな建物であった。男たちや若者が集会を行なったり、学識ゆたかな賢者がおとづれるのを迎える建物や神聖な儀礼を行なう建物も同じように大きく造られた。木も生えないような高地の家を捨てて下ってくる人々が街をおとづれて、神々の言葉を伝えたり、若者たちにタイロナの国家の伝統を教えたりしたといわれている。
タイロナの人々は、自分たちの住む「町」をより大きくすることを計画し、建設活動に用いる木材の切り出しを組織的に行い、雨水が効率的にあつめる運河や貯水槽を造って都市と耕地に供給した。テラス農耕のシステムの遺構は、経年劣化によって亀裂が起こったり侵食されたりすることを防ぐよう設計されていた。
==タイロナの政治と軍事==
タイロナの政治、統治組織についてはほとんどわかっていないが、何度かの調査によっていくつかの中心地を持つ連邦制的な側面があると考えられてきた。集落を形成する文化であって政治的宗教的な統御(統制、統治)を行なうために、何段階ものヒエラルキー(階級構造)があったと思われる。しばしば集落の中心には、マウンドや基壇をともなう神殿や宮殿が建てられた。しかし、タイロナの集落は中心となる「町」に住む有力な首長のもとで結びついていた。[[ライヘル・ドルマトフ]](Reichel-Dolmatoff,G.) は、[[アンデス文明|アンデス]]社会やコロンビアの他の地域の特徴的な文化の社会的政治的な発展段階との比較により、よりすすんだ形態との位置づけとして、タイロナの国家形態を「集落[[封建制]]<ref>原文では、village federation</ref>」と呼んでいる。
人口1000人くらいのいくつかの町には[[カシケ]](首長<ref>酋長とも訳される語であるが侮蔑的な語感を伴うためさけることとした。中立的な英訳としてはChiefdomのchiefということになり、Chiefdomは通常「首長制国家」と訳されることから首長とした。</ref>)がいたと思われる。よりよく統治をすることができる人物として首長がいたことが、神官のような半神格化された指導者が中心的な役割を果した他のスペイン征服以前のアメリカ古代文化の担い手たちとは異なっている。首長は、儀礼的な役割、執政官としての役割、裁判官としての役割を果していた。首長たちはそれぞれ異なった意見を持つことができたが、一方では、タイロナ国家に共通する文民統治機構には、やはり祭司たちがかかわっていた。祭司たちは執政官としての権限はまったくなかったが、尊敬され、さらには崇敬すらされていた。そのため、祭司たちの意見が、会議の決定に著しい影響を与えることもあった。神々の戒めを通して庶民の生活に影響を与えていた。
タイロナの軍事組織には常備軍的なものは存在しなかったが、それぞれの「町」<ref>[[スペイン語]]で、都市をあらわすciudadが充てられることがあるが、人類学的にはともかく、現在的な都市とは規模や性格も異なることから「町」とした。</ref>から屈強な男性が選ばれ、戦いのために訓練を受けていた。またそれがそれぞれの「町」の首長たちで構成する会議体がそれぞれの「町」に課した義務でもあった。訓練が終わると男たちは「マニカトス(Manicatos)」に異動することになった。「マニカトス」はタイロナ国家の軍事組織であった。
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==タイロナの言語==
タイロナ人の言語は[[チブチャ語]]のグループに属する。チブチャにはムイスカ人も含まれ、ムイスカはそれぞれの「町」で無数の言語分化をしていた。そのため、前述の冶金・鋳造業にみられるような文化的なつながりが確実に存在した。[[キンバヤ]]のような集団と比較してタイロナとムイスカの交流は活発であった。
[[Image:Tairona Burial Urn.JPG|thumb|270px|right|タイロナの蔵骨器]]
[[Image:Tairona 'Treasure Jar'.JPG|thumb|270px|right|タイロナのいわゆる’Treasure Jar’]]
==タイロナの経済と食料==
タイロナの経済は、交易にはほとんどたよらず、むしろ自給自足に近い状態であった。というのは、タイロナの人々が住む場所は、すべて海の近くの熱帯のような場所であって、釣りや漁業に適している場所から比較的暖かい場所を経て、山岳地帯の耕作に適した地域にまで及んでいる。タイロナ人の食生活、栄養補給の実態については、食料を作るには不適なシェラ・ネバダ山脈の[[トウモロコシ]]栽培によって、丸いパン(bollos)をつくって焼いていた。丸いパンを作る技術は、後に[[シヌー文化]]にも伝わった。また、丸いパンだけでなく、トウモロコシを原料に醸造した[[チチャ]]酒やアレパス(arepas)という普通のトウモロコシのパンも多く食べたようである。また、飲み物には甘みをつけるために[[蜂蜜]]を用いた。つまり、タイロナ人は、養蜂も営んでいたのである。タイロナ人は優れた農夫であり彼らの菜園では果樹や豆類、野菜類、[http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/toge-banreisi.html トゲバンレイシ]、[[パイナップル]]、[[アボカド]]、[[グァバ]]が栽培された。
肉の消費はごくわずかであって、ヤギ類の肉や[[テンジクネズミ|クイ]]などの[[齧歯類]]の肉を特別な日に食べていたようであるが、一般的には魚を食べていた。
==タイロナの土器==